よくある質問と回答
群馬の古墳時代ってどんなイメージ?

群馬の古墳とその時代
太田天神山古墳(太田市教育委員会)
太田天神山古墳(太田市教育委員会)

群馬には、一万以上の古墳があったと言われています。

関東地方では最もたくさんの古墳が作られた地域です。

大きな前方後円墳や、豪華(ごうか)な副葬品(ふくそうひん)が見つかった古墳も少なくありません。

大きな古墳は、力のある豪族のお墓と考えられますから、群馬には、そうした豪族がたくさんいたのでしょう。

豪族が住んだ場所だろうと考えられている遺跡も見つかっています。

ムラの遺跡も、たくさん発掘調査されています。

古墳ってなに?

奈良古墳群
奈良古墳群(沼田市教育委員会提供)

古墳は、今からおよそ1700年前から1300年前につくられたお墓で、村々や地域を治めていた人などが埋葬(まいそう)されていました。このころを古墳時代といいますが、当時のお墓にはいくつかのタイプがありました。特に、土を盛り上げて四角い形や丸い形にしたものを古墳といいます。今では木が生えたりして小山のように見える古墳も、できた時は埴輪(はにわ)を並べたり、土の上を石で覆(おお)ったりしていました。高崎市の「かみつけの里博物館」のすぐ近くに当時を再現した古墳があります。

小学校の社会科の教科書にも仁徳陵(にんとくりょう)古墳など、前方後円墳とよばれる大きな古墳の写真がのっているでしょう。このように大きな古墳は奈良県や大阪府に多いのですが、群馬にも大きな古墳があります。写真1の古墳は太田市にある天神山(てんじんやま)古墳で、長さが210mもあり、これは全国でも26番目の大きさです。

でも古墳はこのような大きなものばかりではありません。直径10mくらいの小さなものもあります。このような小さな古墳は、写真2のように10基、20基とまとまって同じ場所につくられました。群馬には1万基近くの古墳があったようですが、ほとんどがこのような小さな古墳です。家が建てられたり、畑になったりしてその多くが消えてしまいました。

どんな家に住んでいたの?

みなさんは教科書や博物館で、地面に穴を掘ってその上に屋根をかけた竪(たて)穴住居を見たことがあるでしょう。

たいていの人はこのような家に住んでいました。

でも竪穴住居だけが当時の家だったわけではありません。

黒井峯(くろいみね)遺跡
黒井峯遺跡復元イラスト(かみつけの里博物館提供)

渋川市の黒井峯(くろいみね)遺跡を描いたものです。この遺跡は、古墳時代に榛名山の噴火で降った軽石に村ごと埋まってしまいましたが、そのために当時の様子がよく分かることで知られています。竪穴住居の他にも、地面を掘り下げずにそのまま使う「平地建物」、「高床(たかゆか)倉庫」などがあり、目的によって使い分けていたようです。

三ッ寺I(みつでらいち)遺跡

三ッ寺I遺跡(みつでらいち)は、深い堀に囲まれた広い敷地の中に柱をたくさん使った立派な建物が建っています。これは普通の人たちの家ではなく、大きな古墳に葬られるような人が住んでいた家です。

軽石や火山灰で埋もれた遺跡を発掘調査すると何がわかりますか?

黒井峯遺跡
榛名山軽石で埋もれていた畑【黒井峯(くろいみね)遺跡】

噴火は当時の人々には不幸なできごとでした。しかし、普通の遺跡では分からない平地住居や道などを発見することができ、当時のムラの様子や田畑のことが詳しく分かります。群馬県で昔の水田がたくさん発見されるのは、火山の噴火があったからです。

どんな暮らしをしていたの?

上滝榎町北遺跡
上滝榎町北(かみきたえのきまちきた)遺跡の古墳時代の水田

古墳時代の人たちの具体的な生活の様子は、あまりよく分かっていません。黒井峯遺跡では家のまわりに畑や家畜小屋が発掘で見つかりました。この村の人たちが家畜を飼ったり畑で作物を作っていたことは確かです。

また古墳時代の田んぼも多く見つかっています。このころの田んぼは、今と違って一つひとつがとても小さなものです。農業をする人だけでなく、きれいな石で首飾りをつくる人、粘土で埴輪をつくる人、鉄などの金属を加工する人など、いろいろな仕事をする人がいました。

どうですか、みなさん。群馬の古墳時代が少しイメージできましたか?