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今月のトピック遺跡紹介平成22年7月
萩原(はぎわら)遺跡【北関東自動車道関連】
江戸時代の一分金(いちぶきん)
一分金は江戸時代の通貨で、1/4両に相当します。慶長6年(1601年)から万延元年(1860年)までに10種類発行されましたが、萩原遺跡で発見された一分金は元文一分金といわれる元文元年(1736年)から文政元年(1818年)の間に鋳造された金貨です。
形状は約1.6cm×9.7cmの大きさの長方形で、表面には「五三の桐紋」と「一分」の文字が、裏面には鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印「光次(みつつぐ)」の署名と「花押」が刻印されています。初代後藤光次(1571~1625年)は家康の厚い信任を得て、江戸幕府の金貨を鋳造した人物ですが、以後代々、金座の主催者がその名を継承しました。萩原遺跡の一分金の重さは0.875匁=3.24gですが、元文一分金は65.7%の金の含有率と言われていますので、この金貨には約2.1gの金が含まれていることになります。
元文一分金が鋳造されていた文化・文政期は、第11代将軍徳川家斉の時代で、将軍は大奥を中心とした豪奢な生活をおくり、水野忠成による賄賂政治が横行していました。十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』や、葛飾北斎の浮世絵『富岳三十六景』に代表される化政文化と呼ばれる江戸の町人文化が栄えたのもこの頃です。また、浅間山の大噴火(1783)や天明の大飢饉(1782~1787年)があり、各地では社会不安から一揆や打ち壊しが発生しました。文化・文政期の貨幣価値を現在の貨幣価値に換算するのは難しいですが、一人暮らしの男性なら1年に3両もあれば生活できたといわれており、一分金1枚で約1ヶ月の生活費がまかなえることになります。
一分金が遺跡から出土することは大変珍しく、県内ではほかに吾妻郡長野原町久々戸(くくど)遺跡が知られているのみです。萩原遺跡の一分金は遺跡の表土から出土しており、どのような状況で遺跡に残されたか不明ですが、当時の人が紛失したものだとすれば、落とし主には相当な痛手であったことでしょう。

一分金(表)

写真1 萩原遺跡出土の一分金(表)

一分金(裏)

写真2 萩原遺跡出土の一分金(裏)

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