仏堂=江戸時代末から明治初年(約150年前)=
多野郡吉井町に在る多比良天神原遺跡Ⅱの発掘調査は、平成19年度9月に実施され、平成20年度に整理作業を行いました。
この遺跡からは、縄文時代後期の竪穴住居跡や、中世の掘立柱建物跡などのほか、江戸時代終わり頃の小規模な仏堂跡が見つかっています。
発掘調査によって、この仏堂があった場所は、江戸時代後期の天明三(1783)年の浅間山噴火以前に、大規模な土地造成がおこなわれていたことが明らかになり、南に接する山を「積善寺山(しゃくぜんじやま)」とよび字名にもなっていることから、この場所に積善寺という寺院があったのではないかと推定されています。今回の調査では、古文書や古い寺院関係の遺物などの具体的な資料は見つかっていませんが、中世(鎌倉・室町時代)にまで遡るものであった可能性が考えられます。
発見された仏堂はこの造成地の一角に方形の基壇を設け、その上に建てたものでした。基壇盛土には天明三年の浅間山噴火による火山灰が混じっていましたから、この噴火以降に造られたことがわかります。基壇はかなり崩れていましたが、雨落ち溝や参道と考えられる浅い溝の方向や規模から、建物は、東側を正面とする12尺(約4m)4方で4尺5寸(約1.5m)の庇のある宝形造り(ほうぎょうづくり)であったと推定しています。傍らからは、五輪塔の破片など墓地が近くにあったことを示す遺物も出土しています。
周辺の寺院・寺院跡、墓地や石仏の分布状態を調べてみたところ、同時期に存在していたわけでは無いと思われますが、旧多比良村内にはかつて大小23カ所もの寺院・仏堂があったことが考えられるに至りました。発見された遺構は、すでに無くなっていた積善寺とは別に設けられた仏堂の一つ(24カ所目)であったのでしょう。
小規模な仏堂の存在は、今後、江戸時代の集落の人々の信仰生活や、人々の帰依を受けて活動した僧侶たちの活動を知る上で、重要な手がかりになるものと考えられます。
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写真1 造成工事の跡
(斜面に次々に土盛りをしています) |
写真2 仏堂の跡
(奥に雨落ち溝が見えます) |
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| 写真3 五輪塔の部分(お墓の石塔) |
写真4 甘楽町金井の姥子堂
(現存する近似例) |