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帽子をかぶる正装の男子埴輪(ぼうしをかぶるせいそうのだんしはにわ) |
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幅広いつばの上に丸玉飾りのついた帽子をかぶり、細い帯で束ねて太く結った美豆良(みずら)、大きく開いた上衣の裾(すそ)、脚結(あゆい)の上下が大きく膨らむ褌などが印象的である。丸首になる盤領(ばんりょう)の上衣を着て耳環と耳飾りをつけ、細かく綴じられた籠手はひもで固定されている。腰にはきらびやかな環頭大刀をつけ、鞆(とも)と袋を下げている。袋と一緒にくくられている棒状のものは刀子(とうす)であろうか。
この埴輪は山高帽のような帽子をかぶることが大きな特徴である。器財埴輪としても作られるが、この帽子を被るのは、盛装した立像の男子に多い。類似した帽子は盛装の座る男子に認められる。 この立像は昭和12年にもとの宝泉村大字由良字四ツ塚から出土し、「四ツ塚古墳出土」と呼ばれている。しかしどのような古墳だったかはわかっていない。一緒に出土した埴輪には男子や女子の頭部、男子半身像、馬、鳥などがある。それらの破片から、これと同じような姿の男子埴輪がもう1体あった可能性が考えられる。(南雲芳昭) |
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立像であるが、腰の下は表現されず円筒化している。頭には菅笠(すげがさ)をかぶる。髪は労働しやすいように耳元で短く結った「上げ美豆良(みずら)」である。目はわずかに下がり、柔和な面立ちをしている。目の上には、眉(まゆ)とも眉骨ともとれる直線的な盛り上がりがある。上衣の合わせ目や、腰帯から下げた太刀の吊りひもは省略し、また、腰帯はタガと同一の表現であるなど、簡略化が進んでいる。
鍬を担いでいることから、「農夫」と見られているが、大玉の首飾りをつけ、腰に大刀を下げているなど、不釣り合いの点がある。一方、鍬を墓造りの道具と見れば、墓造りにたずさわった者が、葬列に加わった姿とみなすことができる。その場合菅笠は単なる日除け笠ではなく、儀礼具としての意味があったのかもしれない。オクマン山古墳出土と伝えられ、同古墳に樹立された、形象埴輪群の全容を把握し検討する中で、埴輪祭祀(さいし)の実態と共に解明されていくであろう。(宮田 毅) |
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円筒形の台の上にのる武装の男子全身像。太田市強戸出土例と非常によく似ている。ただし、脚の部分は全体に小札(こざね)による膝甲(ひざよろい)・臑当(すねあて)でおおわれている点が違う。また、挂甲の小札の綴じ合わせ目を小さな穴で表現したり、肩甲(かたよろい)が別作りであることを明確に表現していることなど、全体に非常にリアルなつくりである。おそらく、これがこの種の武人像の原形になっているものと思われる。極めて丹念なつくりであり、製作工人の熟練ぶりがうかがわれる。
胄(かぶと)の中からのぞく顔は、不気味なほどに静かな表情で、無言のままにこちらを見つめている。まさに死者の世界を護るにふさわしい。国宝。 |
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連続三角文で飾られた椅子に腰かけた全身表現の女子である。島田マゲの上には髪を結ったひもが見え、前髪にさしているのは櫛(くし)であろうか。耳飾りのほか、2連の丸玉による首飾り、手首と足首にはそれぞれ丸玉による手玉、2連の足玉が目を引く。
上衣のほかに右肩から斜めに布をつけ、左脇(わき)では弧状に背中に回り、右脇でも側面に張り出している。その上に三角文で飾られた帯をゆるく締め、背中で交差する襷(たすき)をしている。これらは近畿地方の巫女(みこ)の埴輪にみられる形の意須比(おすひ)と襷である。さらに腰には袋と五鈴鏡を下げている。鈴鏡は関東地方を中心に分布する鏡であり、この女子は近畿風の意須比をつけた関東の巫女といえよう。 群馬県内では、巫女の服装の多くは装飾された幅広の帯状のものを右肩からかけたり、背で交差する襷のみである。なぜ近畿と違ってこれらの相違があるのか、この埴輪は大きな謎をなげかけている。(南雲芳昭) |
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頭をやや後ろへ反らせながら右に傾け、右手は頭の脇に、左手は前の方に差し出したしぐさから、踊っている様子を表すと考えられている。
服装は腰の帯だけ表現される。左手首には腕輪のようなものが見えるが、肩側の輪郭がはっきりしないところから袖口であろう。頭には連続三角文の文様を持つ帽子あるいは頭巾(ずきん)をかぶり、両側には美豆良(みずら)がはげ落ちたと思われる粘土の痕跡がある。口には上口唇裂の症状がみられる。 極端に単純化された丸い目、あんぐりと開いた口とそのしぐさから、どことなくユーモラスな印象さえ感じられる。熟練した埴輪工人が、動作の一瞬をとらえて的確に表現した埴輪工人の見事な腕前がうかがわれる。 この男子がどのような踊りを踊っていたのか分からないが、単なる遊びではなく新首長の誕生の儀式や、死せる者の魂を呼び戻そうとする殯(もがり)の場などで踊ったものであろう。(南雲芳昭) |