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金銅製心葉形透彫杏葉(こんどうせいしんようがたすかしぼりぎょうよう) |
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杏葉は、馬の鞍(くら)を固定するための胸繋(むながい)あるいは尻繋からつり下げられる装飾用の馬具である。日常的な乗馬には必要なく、儀式の場に臨む際に装着されるものである。観音山古墳の心葉形杏葉は同形同大のものが3枚ある。
金銅製の地板の上に、縁に列点を刻んだ唐草文の透かし彫りの金銅板を重ね、さらに金銅製の縁金具を重ねて鋲(びょう)を打って留めている。上端に付けられたU字形の吊金具が革帯に固定されることによりつり下げられるわけである。類品は「海の正倉院」と呼ばれる福岡県の沖の島の祭祀(さいし)遺跡から出土している。観音山古墳の豪族が極めて希少な優品を保持していたことがわかる。 発見された当時は、銅の錆(さび)が全体を覆い、濁った緑色をしていた。その後、丹念な科学的処理を施すことにより、古墳時代の金色の輝きがここによみがえったのである。国指定重要文化財。 |
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漢代の中国製の鏡から型を取って製作した「踏み返し鏡」と呼ばれる手法によったものである。当然、もとになった中国製の鏡にくらべると、鏡背面の文様が鈍いものになる。
鏡の特徴としては、主文様の区画である内区を7つの乳(にゅう)によって7等分し、そこに禽獣(きんじゅう)の文様を半肉彫りで表出している。 この鏡と同じ型で製作されたものが、韓国の公州市にある百済武寧王陵(くだらぶねいおうりょう)から出土している。武寧王は523年に亡くなったことが知られている。5世紀後半から6世紀にかけて、日本は朝鮮三国(高句麗=こうくり・百済=くだら・新羅=しらぎ)の中で、百済との関係が最も親密であった。百済王権、ヤマト王権のいずれかの地で、複数の獣帯鏡が共同製作され、お互いに持ち合ったのであろうか。そのうちの1枚が観音山古墳の豪族のもとにもたらされたのであろう。国指定重要文化財。 |
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大量の金属製品が発見されたことで話題になった奈良県・藤ノ木古墳の石棺内から金銅製の大帯が、金銅製の冠・飾履(しょくり)・大刀などとともに出土した。これ以外で金銅製大帯を伴う古墳は、観音山古墳・前橋山王金冠塚古墳ぐらいで、意外と少ない。
その中でも観音山古墳の大帯は、縁に等間隔で鈴を20個つり下げている点で特異である。鈴は帯と同じ金銅製であり、頂部に取り付く吊(つ)り環(わ)に銀製の鎖をつなげて下げている。大帯の内側には銀装の刀子(とうす)が2本挟まっていた。 この大帯の出土した位置は、石室の側壁に接した部分であった。ここに葬られた首長が装着して埋葬されていたわけではない。生前にハレの場にのぞむとき着けていたことと思われる。金銀装の頭椎大刀(かぶつちのたち)を下げ、腰に巻いた光り輝く金銅製大帯がカラカラと鳴り響く様は、他の金属製の副葬品ともあわせて、観音山古墳の首長の権力をまざまざと見せつけている。国指定重要文化財。 |
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観音山古墳の石室内からは、須恵器の蓋坏(ふたつき)・高坏(たかつき)・▲(はそう)・提瓶(ていへい)・大型壺・中型壺が18点と土師器の高坏・坩が2点のあわせて20点が出土している。
群馬県で土器が遺体のかたわらに置かれるるのは、6世紀初めからである。それは横穴式石室が採用されるようになった時期と一致している。横穴式石室とともに土器を石室内に置く風習が新たに入ってきたものと考えられている。このような風習の源は、中国の古代に求めることができる。特に秦漢代以降、手厚く葬る厚葬(こうそう)の風習が盛んになり、墓の中に生前の生活を再現しようとし、生活器材を持ち込んだ。大量の土器には実際の食物が入れられる場合も多かった。
観音山古墳の土器類も食物を供えたり、保管したりする器種である。台付き壺は酒などを入れる容器として使用され、台を付けることにより、供える役割を果たしていたものと推定される。国指定重要文化財。 ▲瓦に泉 |
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掲載した写真は大刀の柄頭(つかがしら)である。丸い環がつくので環頭、その環の中に中国の想像上の動物である鳳凰が、1羽表現されていることから単鳳環頭と呼ばれている。鳳凰は左横を向いている。先端のとがったところが嘴(くちばし)である。環の周りに刻まれている文様は、本来はからみあった2匹の龍を浮き彫りにしたものであるが、ここではすっかり形が崩れてしまい、どう見てもそれが龍の体には見えない。
6世紀になると金銅や銀で装飾を施した大刀が極端に多くなる。県内の古墳からもそうした大刀が多数発見されている。しかし、それは単なる流行ではない。これらの大刀はこの時期、全国に向けてに中央集権体制の確立を推し進めつつあった畿内の大王と、その周辺勢力(ヤマト王権)のもとで製作され、各地の豪族や有力者との政治的結合を深めるための一つの手段として、政治的意図のもとに配布されたものと考えられている。(徳江秀夫) |