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人の乗る馬形埴輪(ひとののるうまがたはにわ) |
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学校の敷地内の工事で偶然発見された。
5世紀後半から6世紀にかけての形象埴輪のなかで、馬形埴輪は最もポピュラーな一つ。前方後円墳ともなると、その数が1古墳で10体以上に達することも少なくない。全国で発見されている馬形埴輪の総数は、おそらく何千という数にのぼるであろう。ほとんどの馬形埴輪が乗馬用であるが、実際に人の乗っている姿を表したものとなると、その数は極めて少ない。全国でも16例が数え上げられているにすぎない。 これは、その中でも、最も状態がよく、また出来栄えのよいものである。乗っている人物は背中に何かを背負っている。子供をおぶっているようにも見えるが、具体的になんであるかはわからない。人物の表現は極めて簡易なもので、衣装・装身具などはいっさい表されていない。馬が主役で、人物が脇役なものであったことがわかる。 |
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挂甲は長方形の小型の鉄片をとじ合わせてつくった甲(よろい)で、5世紀後半には最初のものが登場する。そして、6世紀の初めには鉄板をとじ合わせてつくった短甲に完全に取って代わっていく。挂甲の方が可動性にすぐれていたからである。
こうして、六世紀の武人埴輪は挂甲を備えたものとして表現されるようになる。上芝(かみしば)古墳の挂甲武人埴輪は、その種類としては早い時期に属する一つである。 全体的なつくりは簡略化されており、やや稚拙な感がある。しかし、左手で大刀の鞘口(さやぐち)の辺をおさへ、右手で柄(つか)を握る抜刀スタイルのしぐさは、動的であり緊張感をかもしだしている。このことは太田市飯塚や強戸から出土したとされる、挂甲武人埴輪の動きのなさと比較してみるとより鮮明になるであろう。 |
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昭和4年の発掘調査により、上の男子埴輪とともに発見された。古墳は全長20m足らずの帆立貝式古墳で、墳丘の全体が榛名山の噴火に伴う土石流によって厚く覆われていた。人物埴輪が出土したのは、円丘部分から張り出した方形の造出部(つくりだしぶ)からであり、ほかに馬形埴輪をはじめとし、11体分の形象埴輪が出土している。
埴輪は上半身像で、右手は右胸の前のところでとめられ、左手は水平に左側に延ばされ、上に向けた手のひらには坏(つき)がのせられている。祭儀の中で、酒を主人公に渡そうとする巫女(みこ)の姿を表したものであろう。 衣服は上着部分のみが表現されており、赤色で描かれた円を文様としている。また、右肩から下げられて、腹部左側のところで交差させている鋸(のこぎり)の歯のような文様の幅広のたすきが目を見張る。巫女の祭儀用の装身具であったことがわかる。 |
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広瀬川の右岸に形成された前方後円墳(昭和初年の記録によれば墳丘長127m)から出土したもので、これ以外にも多くの形象埴輪が発見された。
数ある動物の種類の中で、犬ほど人間と身近な関係にあるものはほかにいないであろう。犬と人間のつきあいを示す考古資料は縄文時代にまでさかのぼる。愛知県の吉胡(よしご))貝塚では、人間によってていねいに埋葬されたと思われる犬の骨が確認されている。おそらくこの犬は人間に飼われていたのであろう。 天神山古墳の犬形埴輪は首輪をしており、そこに鈴と思われるまるいものが付いていることから、人間に飼われていたことはまちがいない。口を半開きにして舌をのぞかせており、小さなしっぽはくるりと巻いている。飼い主に従順でかわいがられていた犬を思わせる。この犬は、下の猪(いのしし)形埴輪とセットの関係にあることから、猟犬であったことがわかる。国指定重要文化財。 |
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上の犬形埴輪と一緒に前方部の基壇上に置かれていたことが、発見者からの聞き取りをもとにした記録によって知ることができる。
犬形埴輪と猪形埴輪がセット関係にあることは、保渡田Z遺跡でも確認することができたが、そのほかにも全国的に多くの事例をあげることができる。当時の人にとって、犬と猪の組み合わせが定型的なものとして意識されていたことを知ることができよう。この組み合わせが狩猟儀礼の場面を構成するものであったことは、保渡田Z遺跡で犬・猪に狩人が加わっていることや矢の刺さった手負いの猪の表現により確実視できよう。 農耕を生業とする古墳時代社会にあっても、旧石器・縄文時代に源のある狩猟、あるいはそれにかかわる儀礼が重視されたことは、弥生時代以降の農耕社会の日本文化を考えていくうえでも、見落としてはならない点であろう。国指定重要文化財。 |