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馬形埴輪(うまがたはにわ) |
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直径22.7mの円墳からの出土である。このほかに男子の人物埴輪1体も出土している。 |
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東武伊勢崎線世良田駅の南側一帯で、5世紀後半から6世紀前半にかけての中小の古墳73基(帆立貝式4、円墳69)からなる群集墳が発見された。そのうちの一基、3号古墳(円墳、径16.5m)から、ほぼ完全な埴輪列が発見された。小型の円墳であるため構成はささやかであるが、形象埴輪(人物5、馬2)の配置状態が興味深い。
この人物埴輪群は、墳丘の縁をめぐる円筒埴輪列の内側に、4人が向かい合うように置かれていた。左から2番目の男子は、帽子をかぶり腰につけた大刀に手を当てている。主人公であろう。左端の女性と左から3番目の男性は、左手を腰に当て何かを握る右手を掲げている。一方、右端の女性は、左手で何かを握り、右手を腰に当てている。握られているものは手の中に隠れてしまうほどの細長いもので、踊りながら打ち鳴らす楽器の「四つ竹」ではないかと推測されている。これらの埴輪群は、歌舞の儀礼にのぞむ首長と、これを演ずる人物と考えることができよう。 |
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墳丘の縁をめぐる円筒埴輪列の一部に組み込まれるように、この2頭の馬形埴輪が側面を外側に向けて並んでいた。先頭にくる馬の斜め前方には、馬と同じ方向を向く埴輪男子像が置かれていた。馬と男子像との間に何らかの関係があることは明らかであろう。この種の埴輪を従来は「馬飼い」あるいは「馬子」と分類してきたが、適切な呼称ではないとして「馬曳(ひ)き」という呼称も提唱されている。
2頭の馬形埴輪は、顔の先端を丸め込む古い手法によっている。騎乗に必要な馬具が備わっており、簡略ではあるが、口の部分にf字形鏡板、胸繋(むながい)に馬鈴、尻繋(しりがい)に鈴杏葉(すずぎょうよう)が付けられていることから、一応はハレの場面にのぞむ馬といえる。 この時期の古墳の中では、いちばん小さい部類に属するものであるから、馬形埴輪の像容にも前方後円墳出土のそれとの間に大きな開きがあったことがわかる。 |
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昭和3年に恵下(えげ)古墳から出土した。先端部と下方に続く円筒状の台部を欠くが、鞆の形状をよくとどめている。本来、鞆とは革製で巴(ともえ)形をしており、矢を射るときに左手首に装着し、弓の弦が腕に当たるのを防ぐために用いた。鞆の実物は東大寺正倉院の宝物のなかに見られる。
鞆形埴輪は中が空洞で、表面にはていねいなハケ目の調整が施される。周囲は細長い粘土ひもで革を縫い合わせ。最上部には革ひもを結んでいる様子が表現されるなど、鞆を忠実に埴輪化しようとする意図がうかがえる。下半分の粘土ひもには円盤状の飾りが3個見られるが、上半分にも5個ほどの飾りが想定される。両側には異なる幾何学的な細い文様が刻まれており、この埴輪の特徴となっている。 施された文様は何を意味しているのか明らかでないが、二つとない文様であり、興味深い。葬送儀礼を考えるうえでの手がかりがひそんでいるのかもしれない。(村田喜久夫) |
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6世紀前半に造られた全長94mの前二子(まえふたご)古墳の墳丘から発見された。写真の石見(いわみ)型盾形埴輪のほかに、一般的な盾形埴輪も出土している。この埴輪は、前方部北側のテラス面に設置されていたものが、下段墳丘から周堀にかけて流れ落ちた状態で出土した。
盾面は円筒状の中心より前面に作られ、左右対称に三対のヒレがある。ヒレは粘土ひもによって区画され、赤く縁取りされている。2段と3段目のヒレには対をなす白い半円状の彩色が見られる。1段目の中央に1個、2段目に左右2個、計3個の小さな穴があいている。穴は焼く以前にあけられたもので、太さ6mm程度の工具で正面から裏面に向かってほぼ水平に貫通させている。 石見型盾形埴輪という名称の由来は、奈良県石見古墳で最初に発見されたことによる。これは近畿地方を中心に分布をみせ、関東地方では前二子古墳から見つかっているだけである。なお、盾と呼ばれているが靱(ゆぎ)であるとの見解もある。(前原 豊) |