多胡碑(たごのひ) |
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| 多胡碑は吉井町にあり、和銅4年(711)の多胡郡が新たに置かれたことを記念したもので、太政官が出した郡の設置命令を刻んでいる。『続日本紀』には、甘楽郡の織裳(おりも)、韓級(からしな)、矢田、大家(おおやけ)、緑野(みどの)郡の武美(むみ)、片岡郡の山の6つの郷名が記されている。つまり、一郷は50戸であるから、300戸がまとめられて多胡郡となったのである。
碑文のうち、「弁官符」については、太政官符や勅符の異称という見方や弁官符という独自の文書が存在したという説などがある。また、「給羊」の解釈についても、意見の分かれるところである。 この碑は早くからその書風で知られていて、清の楊守敬らの『楷法溯源』に楷書の一例として採られている。しかし、山ノ上碑の書風のような古風さは認められない。 多胡碑は台石の上に直方体の碑身を立て、その上に長方形の笠石をのせたもので、同様のものに、栃木県の那須国造碑などがある。国指定特別史跡。 |
奈良三彩小壺(ならさんさいこつぼ) |
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| 赤城山麓の前橋市桧峯(ひのきみね)遺跡の住居跡の中から出土した。緑釉を主体として、褐釉と白釉を間に施している。薄手のつくりで、強く肩を張った扁平な球形をしている。底面には、外に張った高台を付けている。その精巧なつくりと、色彩感覚は、当時の人々のセンスの良さを物語っている。県内の奈良時代を代表する遺物であり、福岡県の沖ノ島出土のものなどに類似のものがある。
奈良三彩は唐三彩の影響を受けて、平城京内やその周辺に築かれた公の窯で生産されたと考えられている。そのため、各地で出土するものは材質や釉調がよく似ている。また、これらは数が少なく、日常に使われた土器とは考えられず、特別な目的を持った行為に使用されたのであろう。 |
唐三彩陶枕(とうさんさいとうちん) |
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| 発色の状態がよい唐三彩の陶器の枕である。平坦な上面に大きく宝相華文(ほうそうげもん)が描かれ、そのまわりに花弁状の文様が型押しされている。花弁は半パルメット文が向き合わせになっている。この部分と中央花弁、周囲の花弁に褐釉が施されている。その間には、緑釉と白釉とがおかれている。側面には文様は認められず、3色の釉がかかっている。
唐三彩は県内では唯一の出土例である。全国的に見ても北九州、奈良・京都で大部分を占め、東日本では数例が報告されているだけである。境ケ谷戸遺跡は東山道が近くを通っており、新田駅家(うまや)との見方もされている入谷遺跡が近くにあり、新田郡における要衝に位置しているのである。当時、大変貴重であった唐三彩がこの地から出土したことの意義は深いものがある。 |
軒瓦(のきがわら) |
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| 上野国分寺創建期の軒丸瓦の文様は蓮華(れんげ)文の花弁の重なりを表現した重弁で、割り付けの難しい五弁である。弁の反りがシャープさと厚みをもたらし、均整のとれた美しさを醸し出している。また、軒平瓦は扁行唐草文で流れるように連続して表現されている。
天平の華と謳われた国分寺は、上野国府の西側に建立された。しかし、他国の国分寺と同様にその建立には長い年月を要した。軒丸瓦は、その間の事情を物語ってくれている。上野国分寺からは数十種類にもおよぶ軒丸瓦が出土しており、その文様の違いから県内各地で焼かれたことや、多くの有力者の援助を得てつくられたことがわかる。 |