軒丸瓦(のきまるがわら) |
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| 寺井廃寺は太田市にある白鳳期の寺院跡で、西には近接して東山道の新田駅家(うまや)とも推定される入谷遺跡がある。
軒丸瓦の文様は複弁八葉蓮華文で、周縁部には面違いの鋸歯(きょし)文をめぐらしている。中房はふっくらしていて、蓮子(れんじ)は中心に1つ、その周りに5つ、8つと配置されている。粘土は良質なものを選んでおり、堅く焼かれている。この文様の様式は、奈良県にある川原寺に原形を求められる「川原寺式」であるが、花弁、子葉ともにその厚みがなくなってきていることから、原形に比べてだいぶ後になってから作られたものである。 県内では上野国分寺跡から3点ほど出土しているが、主として用いられているのは寺井廃寺のみである。また、栃木県の下野薬師寺でも川原寺式の軒丸瓦が出土する。 |
軒瓦等(のきがわら) |
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| 金井廃寺は吾妻町を流れる吾妻川右岸の北斜面にある。県内の他の3つの白鳳寺院が平野部の交通の要衝にあるのとは異なり、山間部につくられているという特色をもった寺院である。
本格的な発掘調査が行われていないので、伽藍(がらん)の規模などは不明である。しかし、吾妻町の一宮神社に隣接して、造り出しをもつすぐれた技巧の礎石が存在しており、出土瓦から見ても大きな寺院が存在したことは確かなようである。 軒丸瓦は上植木廃寺出土の瓦の系譜を引くもので、単弁八葉蓮華(れんげ)文である。その文様は、上植木廃寺のものよりさらに蓮弁、子葉とも形式化されたものであり、時期も少し下るものと考えられる。 |
文字瓦(もじがわら) |
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| 山王廃寺の塔跡の西側から出土した1枚の文字瓦の発見は、県内の古代史を大きく塗り替えることになった。そこには「放光寺」と書かれており、調査に携わっていた人たちは一目見たとたん、大きく息をのんだ。それは、上野三碑のうちの辛巳歳(681)の紀年のある山ノ上碑と、長元3年(1030)ごろに作成された「上野国交替実録帳(こうずけのくにこうたいじつろくちょう)」に定額寺(じょうがくじ)として記されている放光寺と同名であったからである。定額寺とは国家からの援助と保護を受けることによって、規制も受けるという官寺に準ずる寺院であった。
調査によって明らかになった山王廃寺の存続年代は7世紀後半から11世紀ごろまでであり、山王廃寺こそが放光寺であると考えられるようになった。まさに、2つの資料を結びつける貴重な発見であった。 |
山ノ上碑(やまのうえのひ) |
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| 高崎市山名町の山ノ上碑は、観音山丘陵南部を平坦に削った場所にあり、隣接して山ノ上古墳が存在する。この碑は、佐野三家(みやけ)にかかわる黒売刀自(くろめとじ)と長利(ちょうり)親子の系譜を述べており、7世紀の中ごろに築造された山ノ上古墳に葬られた黒売刀自の墓誌として辛巳歳に建てられたものである。辛巳歳は681年と考えられることから、黒売刀自は山ノ上古墳に7世紀後半に追葬されたものとの考えもある。また、碑文に見える放光寺は前橋市の山王廃寺であることがわかってきた。
この碑の碑文には古い書風が残されていて、隷書体の特徴が認められる文字が多い。このような古い書風で文字を書く技術は、上毛野地域にはかなり早く伝えられているが、それが7世紀後半まで受け継がれてきたのであろう。 この書風は朝鮮半島経由で日本にもたらされたものであり、山ノ上碑建立の背景には渡来人の文化の存在も想定されている。国指定特別史跡。 |