| 山ノ上碑(やまのうえひ) |
| 高崎市山名町にあり、南面する丘陵を平坦に削った場所にある。これに接して東側には7世紀中葉を前後した時期の截石切組積石室をもつ山ノ上古墳があり、両者は密接な関連をもつとみられている。銘文は漢字を並べて和文を表記したもので、その全文は以下のとおりである。
「辛巳歳集月三日記。佐野三家定賜健守命孫黒売刀自、此新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児長利僧、母為記定文也。放光寺僧」 山ノ上碑は佐野三家の子孫である黒売刀自と長利母子の系譜を述べており、古系譜研究の資料としても貴重で、隣接する山ノ上古墳に葬られた黒売刀自の墓誌として辛巳歳に建てられたものである。このうち、「辛巳歳」であるが、碑文の表記方法や仏教の地方への普及の状況などからみて、天武天皇10(681)年と考えられている。これまで、山ノ上碑と山ノ上古墳の成立はほぼ同時期と考えられ、古墳の実年代決定の基準資料とされてきた。しかし近年では造墓と建碑に時間的な差があり、7世紀の中ごろに山ノ上古墳が造営され、その後時期を隔てて碑が建立されたとする見方が一般的になってきた。黒売刀自は山ノ上古墳に追葬されたものとの考えもある。 碑文中の「佐野三家」については、大化前代に佐野の地に置かれた朝廷のミヤケとみられ、高崎市に佐野の地名が残っているところから、金井沢碑に認められる「下賛郷」や「三家」とのかかわりが想定されている。尾崎喜左雄は「黒売刀自」を健守命の孫と考え、それからさかのぼって「佐野三家」の設定を『日本書紀』に記された推古天皇15(607)年の「国毎に屯倉を置く」という全国的なミヤケの設置記事に対応するものであると考えた。この理解が通説となっていたが、近年ではこの「孫」を子孫という意味に解す説が示され、こちらがより当を得たもののようである。『日本書紀』安閑天皇2(535)年にも全国的なミヤケの設置記事があり、その中に本県にかかわる「緑野屯倉」が設置されたことが見え、これは藤岡周辺に置かれたものとみられている。前橋市の中鶴谷遺跡ではミヤケの田を耕作する「田部」や「大田」と記された墨書土器が多数出土しており、この付近にもミヤケがあったのではないかと推測されている。箕郷町の下芝五反田遺跡ではミヤケにかかわる犬養(部)氏を表す「犬甘」と刻まれた銅印が見つかっている。これらのことから、佐野三家、緑野屯倉以外にも史料上知られていないミヤケが存在した可能性がある。ミヤケの存廃は大化改新の政策に密接に関連しており、古代国家成立史上の重要問題の評価にかかわるものである。 「大児臣」「新川臣」については、勢多郡に大胡、新川の地名が残っていることから、それを氏名としてその付近に居住した在地の豪族とする見方が一般的であったが、最近の研究では、同時期の資・史料の表記法から「大胡臣」「新川臣」を姓とする見方が示されている。 山ノ上碑に認められる放光寺は佐野の地にあるものと推定されていたが、前橋市の山王廃寺から「放光寺」銘の瓦が出土したことによって、山王廃寺が『上野国交替実録帳』に見られる定額寺の寺格をもつ放光寺であることが確実視されるようになった。この碑の書には古い書風が残されていて、隷書体の特徴が認められる文字が多い。このような古い書風で文字を書く技術は、渡来人によって早く伝えられ、それが7世紀後半まで受け継がれてきたのであろう。碑の形態は自然石を用いたもので、朝鮮の影響を受けたものと考えられている。1954年に山ノ上古墳とともに国指定特別史跡となっている。〈松田猛〉 |
| [文献] ◇尾崎喜左雄『上野三碑の研究』 尾崎先生著書刊行会 1980 ◇東野治之「上野三碑管見」『群馬県史研究』13 1981 ◇『群馬県史』通史編2 1991 |