山上多重塔(やまがみたじゅうとう)

  勢多郡新里村山上の相窪にあり、赤城山から南方向に延びる台地上の緩傾斜面に単独で立地する。周囲に仏堂を思わせる地名などが残存し、かつては隣接地に仏教関連施設が存在したかもしれない。多重塔は多孔質の安山岩で造られ、全高173センチメートル、屋蓋部の最大幅70センチメートル。全体は相輪部、屋蓋部、塔身部、基壇部(礎石)の四つの要素で構成されている。これらのうち相輪部は破損が進んでおり、現状では接続しない。本来はもっと輪があったと思われる。屋蓋部は方形造りに属するとみられ、露盤と屋根からなる。相輪部、屋蓋部とも人為的に黒く彩色されている。塔身部は軒と身、基壇部をおのおの1石から彫りだしている。塔身部上部に円形の彫り込みがあり、南北17センチメートル、東西32センチメートル、深さ10センチメートルの空間がつくられており、本来この部分に経文(法華経)が納置されていたと考えられる。当時の経典を経軸(長さ20センチメートルから30センチメートル)とともに入れることはもちろん、経櫃に入れて納置することもできたと思われる。所々に赤色の塗彩の痕跡が残っており、黒色に塗彩された基壇部とあわせ、本来は木造の小塔建築のような外観であったろう。全体の造作は、見えないところはやや雑になっているが、現状での南面が最も丁寧な造りで、おそらく正面を意識していると考えられる。

 釈文は難解ではないが、やや文意を取りづらい。塔南面上層部から右回りに西→北→東とめぐり、中層から下層へと読むというスタイルは、材質の制約を受けてのこととも思われるが、同時期のものには例外的な様式である。釈文は次のとおり。

「如法経坐 奉為朝庭 神祇父母 衆生含霊 小師道 輪延暦 廿年七 月十七日 為兪無間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」

 同時代の石造層塔の類例は、近畿地方を中心とする西日本に分布しており、それらと比較した場合、製作技法的にはさかのぼる要素が多い。このことは東国地域の独自の特色とみるべきである。多重塔本体、銘文ともに平安初期の延暦20(801)年の所産として特に不都合はないようである。国分寺塔や百万塔陀羅尼などの先行する経塔造立の契機は、前者では藤原広嗣の乱、後者では藤原仲麻呂の乱があったとされているが、多重塔が造立された平安初期には、そのような国家的大事件は発生していない。しかし、前後する時期に最澄の東国布教があり、律令制度の弛緩とともに発生した社会不安が、救済の道具としての仏教を受容する素地を生み出した。この東国布教の際には、如法経の創始者で隣接する下野国出身の円仁も同行していたのも見逃せない。

 上野国の場合、具体的には物品以外に兵士や公民などの人の移動を伴うような連年の蝦夷征討事業の負担が深く関係しているであろう。さらに平安初期の赤城山南面地域は、火葬骨を納めたと考えられる石製蔵骨器の分布に特徴がある。前後関係に問題はあるが、新里村にあり、かつて「武井廃寺」と呼称された遺跡も塔心礎ではなく石製蔵骨器の類例と考えられるようになってきている。また、多数の堂塔や仏像などの遺物が調査され、赤城山信仰との関連も注意される粕川村の宇通廃寺の存在など、多重塔建立の前提となるかなり独自の仏教文化が展開していた可能性が高いのである。多重塔はそのような地域に、同時代の蝦夷征討事業の進展などに伴う社会不安を背景にして成立してきたものと考えられる。1943年に「塔婆 石造三層塔」として国の重要文化財に指定されている。〈関口功一〉

[文献]
◇千々和実「上野国山上多重塔の研究」『群師紀要』1 1934
◇柏瀬和彦「山上多重塔の基礎的研究」『群馬県史研究』27 1988

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