簗瀬二子塚古墳(やなせふたごづかこふん)

  安中市簗瀬字八幡平にある。碓氷川中流域の中位段丘上に立地する。6世紀初頭に築造されたと考えられる前方後円墳で、関東地方では最も古い横穴式石室のある古墳の一つである。石室は1879年に開口され、多量の副葬品が発見された。また、1957年に群馬大学が墳丘と石室の部分的な発掘調査をし、円筒埴輪列や、石室構造がある程度明らかにされた。1995年から1997年にかけて安中市教委が大規模な発掘調査を行い、墓域、墳丘、石室構造などについて多くの新知見が得られた。

 2段築成の前方後円墳で、墳丘長は約80メートルである。後円部の高さは約8メートル。墓域は馬蹄形の内堀、外堤、外周溝で構成される。墓域の全長は約130メートル、全幅110メートルである。内堀は後円部で幅約18メートル、外堤は幅5メートルから9メートル。外周溝は幅1メートルから2メートルである。墳丘は上下段とも法面に河原石による葺石が施されている。縦に目地を通して葺かれており、1メートルほどの施工単位の区割りが明確である。基壇面は幅6メートルほどで、縁辺部に密着状態で円筒埴輪列が樹立される。また、くびれ部頂部平坦面の縁辺にも密着状態の円筒埴輪列が認められる。形象埴輪の樹立位置ははっきりしない。石室正面の基壇面には墓道や埴輪区画などの施設はない。前方部南西隅から内堀に「渡り」的な施設とみられる広い張り出しがある。埋葬施設は両袖型横穴式石室で、入口は後円部基壇面の南に開口する。狭く長い羨道で、入口から玄室にかけて2段に約1.5メートル下がる構造が特徴的である。この段差は玄室部を旧地表面に構築しているために採用されたものと判断される。大部分の石室用材は近くの碓氷川産の安山岩の転石が用いられているが、最も大きな玄室天井石は、秋間石と呼ばれる溶結凝灰岩製の割石が用いられている。玄室の壁面全体がベンガラによって赤色塗彩されているが、これは当期の特徴である。石積みは横積、小口積を基調するが、奥壁、前壁の基底石は縦方向に平積されている点も特徴的である。

 石室内からは石製模造品(鏡、刀子、臼玉、盾など)、銀製垂飾付耳飾、勾玉(硬玉、ガラス製)、管玉(碧玉製)、切子玉(水晶製)、算盤玉(水晶製)、棗玉(ガラス製)、丸玉(水晶、ガラス、金銅製)、小玉(ガラス、琥珀製)、金箔入り3連ガラス玉、金銅製三輪玉、馬具(鉄地金銅製辻金具)、直刀、鉄鏃、挂甲小札、須恵器(坏、高坏、長頚壷)、土師器(坏)などが出土している。また、墳丘や周堀からは多量の円筒埴輪が出土しているが、形象埴輪の出土は少なく、いずれも小片に過ぎない。家、人物が確認されている。なお、大部分の埴輪は胎土からみて藤岡方面で製作されたものと推定される。

 簗瀬二子塚古墳は、規模からみてこの地域での首長墓の一つと考えられる。碓氷川流域にはほぼ同時期に築造された横穴式石室のある古墳が点々と認めらる。九十九川流域に存在する安中市後閑3号墳(墳丘径約20メートル)や松井田町上田中1号墳は、石材、壁面構成法など、石室構造に本墳と共通する部分が多く認められることから、直接的関係があったと推定される。換言すれば、簗瀬二子塚古墳と後閑3号墳、上田中1号墳とは、同一領域内の首長墓と、その下に従属する支配者層の古墳と推定することができる。出土遺物は群馬大学、安中市教委に保管されている。〈大工原豊〉

[文献]
◇『群馬県史』資料編3 1981
◇右島和夫・小野和之・大工原豊・若狭徹「碓氷川流域における横穴式石室の受容」『日本考古学協会第63回総会研究発表要旨』 1997

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