柳沢城跡(やなぎさわじょうあと)

  吾妻郡長野原町横壁字地蔵谷にある中世の山城である。近接する関連遺跡として、南東約3キロメートルに丸岩城がある。柳沢城はこの丸岩城と合わせて「丸岩の要害」として『加沢記』などに記されており、周辺の山頂や崖を巧みに利用した要害堅固な立地である。城の形状は、舌状台地を利用した山城部と丘城部からなる。丘城部は城の中核部分を形成していると考えられる。1992年から1993年の2年にわたって、国道406号道路改良工事に伴って、この中核部分の一部を長野原町教委が発掘調査した。発掘調査の結果、郭跡、堀切、土居、礎石、腰曲輪、石組遺構、溝などが見つかっている。一郭部分では1間間隔の礎石建物が確認されている。この部分では、出土遺物も豊富であり、陶器、鉄製品、銅製品、石臼などがある。特に陶器類には、14世紀から15世紀ごろの常滑、美濃、古瀬戸があり、さらに日本海側の珠洲焼の甕が特筆されよう。この珠洲焼甕は完形であり、県内でも初出例として評価される。また、13世紀から14世紀ごろの景徳鎮製品も出土しており、極めて多様性に富んだ出土遺物を誇る。このように、本遺跡は斜面地に形成された山城ではあるが、礎石建物の存在、豊富な遺物量、さらに珠洲などの他地域との交渉をうかがわせる資料から、一定期間の居住が行われていた重要な施設として位置づけられる。おそらく、南の須賀尾峠越えにかかわる監視施設といった性格が想起され、同時に北側の谷へ抜ける草津街道および諸施設への防備も兼ねたのであろう。なお、『加沢記』には永禄6(1563)年、天正10(1582)年、天正17(1589)年にこの城にかかわる記述が見られるが、築廃城時期などいまだ不明な点が多い。今後、文献資料と発掘資料の検討を重ねる必要があろう。出土遺物は長野原町教委に保管されている。〈白石光男〉

[文献]
◇『柳沢城跡』 長野原町教委 1995

戻る