| 八束脛洞窟遺跡(やつはぎどうくついせき) |
| 利根郡月夜野町後閑字穴切にある。利根川上流部左岸にある三峰山の、南西方向に延びる支脈である石尊山中腹の直立する岩体に形成された洞窟に立地する。洞窟は上下4段に重なっているが、主な遺跡は最上位の洞窟と推定される。1955年に山崎義雄が調査し、「特筆すべき資料として穿孔人歯骨」があるとの報告がなされ、中央の学会でも注目された。しかし山崎の逝去により出土資料は整理されず地元で保管されていた。その後、1981年から県立歴史博物館が資料調査の一環として出土資料の整理、検討を行い、弥生時代中期の再葬墓として位置づけた。本遺跡からの出土資料はおびただしい量の人骨、弥生時代中期の土器、管玉、南海産のオオツタノハガイ製の腕輪、巻貝を輪切りにした小さな飾り玉、イノシシの牙で作った飾り玉などからなる。骨には獣骨が少し混じるが主体は焼けた人骨であった。人の最少個体数は34であるが、実際はもっと多くなる可能性が高い。胎児から老年までの各年齢層の人骨が認められ、骨の部位の残存状況についても顕著な偏りはない。また、成人の顎の骨を見ると生前に意識的に歯を抜いた痕跡が認められ、成人式や結婚式そして近親者の死などに際し、通過儀礼の風習として抜歯が行われていたことを示すものと考えられる。焼けた人骨のほかに、焼けた痕跡の認められない、穴をあけた人の歯10点と骨8点がある。歯は奥歯を主としているが、左上顎第2切歯(糸切り歯)と乳臼歯(子供の奥歯)とがそれぞれ1点ずつ含まれている。本遺跡で見られる生前の風習としての抜歯は成人のみであり、上顎では左右の犬歯と右の第2切歯、下顎では左右の犬歯間の前歯に限られている。このことから、穴をあけた歯は生前に抜いた歯を使っているものではないと考えられる。八束脛洞窟の弥生人は、生前には奥歯を抜いていないので、死後に歯を取り出して使っているものと考えられる。また、穴のあけられた人の歯や骨は成人が主であるが、乳臼歯は3歳前後のものであり、手の指の付け根の部分である基節骨の例では未成年のものが含まれている。つまり、穴をあける素材としての歯や骨は限られた年齢層の人から抽出されたのではないと判断される。
弥生時代初頭における東日本の基本的墓制は再葬墓と呼ばれる。亡くなった人を一度土中に埋めたりして遺体の軟部を腐敗させ(一次葬)、その後に遺骨を取り上げて土器の中に収納し、それを再び土中に埋納したものと想定されている。八束脛洞窟の歯や骨の諸特徴をふまえて再葬墓における遺体処理のプロセスを復元してみると(1)死亡 (2)一次葬を行い軟部の腐敗を待つ (3)遺骨を取り上げ、集団ごとの規制に従って穿孔を施すための骨や歯を抽出し、穿孔後近親者が身につける (4)抽出した歯骨以外の骨の一部は土器に収納し、土中に納める (5)土器に収納しなかった骨に火熱を加え、洞窟などの特定の場所や施設に集積し、亡くなった人が身につけていた穿孔人歯骨もその場所に移す−となる。 人骨を納めた土器は家族などの単位集団ごとに集中して埋納され、その墓の被葬者は遺族により記憶され続けただろう。一方、火熱を加えた骨を集積した場所は共同体全体の祖先の墓となったものと想定される。穿孔人歯骨は亡くなった近親者を遺族が偲ぶ品であったと考えられる。なお、下から2番目の洞窟には巨人伝説が語り伝えられる「八束脛神社」が鎮座し、地域の人たちにより毎年春と秋の年2回例祭が執り行われている。巨人伝説は、当該遺跡の場が再葬墓の一部であるとの認識がなくなった後に、弥生時代人の骨を目にした人のイメージの肥大化により生じたものであろう。出土遺物は月夜野町教委、県立歴史博物館に保管されている。1978年に町史跡に指定された。〈飯島義雄〉 |
| [文献] ◇飯島義雄・宮崎重雄・外山和夫「八束脛洞窟遺跡出土人骨における抜歯の系譜」『紀要』7 1986 ◇外山和夫・宮崎重雄・飯島義雄「再葬墓における穿孔人歯骨の意味」『紀要』10 1989 県立歴史博物館 |