矢田遺跡(やたいせき)

  多野郡吉井町矢田にあり、鏑川右岸に発達した幅広い上位段丘面に立地する。1986年から1991年にかけて、上信越自動車道建設に伴って県埋文事業団が発掘調査した。調査面積は9万平方メートルで、旧石器時代から近世までの多くの遺構や遺物が確認された。

 旧石器時代は、礫群と石器ブロック1カ所がAT下の粘土層から確認された。縄文時代は、中期の加曽利E式を主体とした時期の竪穴住居3、埋甕7、土坑などが見つかった。北に接する椿谷戸遺跡からも同時期の竪穴住居が発掘されていることや、台地が西側に広がっていることからみると、遺跡は北西部分に広がっているようである。弥生時代の遺構は全く見つかっていない。

 古墳時代になると、前期の竪穴住居5、中期の竪穴住居9、後期の6世紀前半の竪穴住居12が造られている。大集落として急激に発展したのは、6世紀後半からであり、この時期の竪穴住居は123棟造られている。以下約50年の時間幅で竪穴住居の数を調べてみると、7世紀前半50、後半78、奈良時代の8世紀前半30、後半40、平安時代の9世紀前半33、後半65、10世紀前半51、後半89となっており、11世紀代になると減少して17棟となる。このように6世紀から11世紀まで、途切れることなく営まれてきた大集落遺跡である。竪穴住居のほかに奈良・平安時代を主とした掘立柱建物9棟、井戸、土器集積、小鍛冶、溝、中世の環濠居館、掘立柱建物、井戸、墓坑、道路、近・現代の畑、溝、道路、墓坑などが調査された。

 遺物の特徴は、紡錘車の出土数が極めて多いことにある。出土した114個の紡錘車は1996年段階での県内出土総数1247個中約1割を占める。

 地名として吉井町大字矢田が残っていること、平安時代の住居から多くの「八田郷」「八田」「物部郷長」などの文字が書かれた紡錘車や土器が出土したこと、また北約1.5キロメートルにある多胡碑や『続日本紀』の記述内容などとの関連から、この矢田遺跡は上野国多胡郡が建郡される以前からこの地域の中心的な集落であり、和銅4(711)年に新たに建郡された多胡郡の中の八(矢)田郷はこの遺跡を含む周辺の地域であったと想定される。出土遺物は県埋文センターに保管されている。〈中澤悟〉

[文献]
◇『矢田遺跡』I〜VII 県埋文事業団 1990〜1997

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