矢瀬遺跡(やぜいせき)

  利根郡月夜野町月夜野字下矢瀬にある。利根川上流域右岸の最下位段丘面、標高393メートルのところに立地する。現利根川とは距離70メートル、比高15メートルで、上毛高原駅の北東700メートルの位置にあたる。1992年に土地改良事業と道路建設に伴って月夜野町教委が発掘調査した。1994年までの調査により、水場と祭祀場を中心とした集落構成が5000平方メートルほどの規模でよく集約され良好に残る縄文時代後期から晩期の集落の全貌が明らかにされ、1997年には国史跡に指定された。

 中央に排水路と作業場をもつ水場を備え、祭壇石敷や方形木柱列および木柱群による祭祀場を隣接させ、これらを取り囲むように墓域と居住域を計画的に配置している。集落の一部は利根川により流失しているが、集落内での縄文祭祀の実態が分かる大変重要な遺跡である。C14による年代では3560BPから2340BPとされる。水場は集落内の湧水地点を4.5メートル×3メートル、深さ1メートルほど掘り下げて周囲に河原石を貼り付け、満水位置に足場を設けている。底部泥炭層からはトチノキ、オニグルミ、ケヤキなどの種実や枝が出土した。部分的な縮小工事も行われている。この南側には石組みの排水路や立石列が続いている。水場の東に接して、扁平礫を敷き並べて石皿を配置した作業場がある。祭壇の石敷は4メートル×3メートルの大きさで、立石3基、扁平な石を横方向に立てて並べ、目の字状配石と特殊な構造であり、埋甕も伴う。この祭壇や水場と配石墓群に囲まれた間から木柱根が54点出土した。

 木柱はクリ材が94%を占め、平均直径35センチメートル以上の巨木であることが注目される。柱と穴のすき間に石を詰め込んで補強したものもある。丸材群と半截材群が祭壇を挟んで別々の範囲に立てられ、それぞれ中心的な木柱列が見られる。半截材の方形木柱列は、同一地点で4回建て替え、柱をそれぞれ6本用いた1辺3メートルから4.5メートルのほぼ亀甲形で、最終期には規模を縮小しているが、半截材の割面は常に東西に対峙させている。丸材の方形木柱列は4.3メートル×3.4メートルの長方形で、4隅に巨木を用いた棟持柱付きの形態である。そのほか、直径75センチメートルの単独半截巨木柱と、縄掛け溝の加工柱が特記できる。

 竪穴住居は22棟が見つかり、炉のない10本柱の大型住居を中央に、多様な竪穴住居が南北に分かれて分布する。石囲炉をもつ方形もしくは円形で4本主柱の竪穴住居が多い中で、目の字形付属施設をもつ全国唯一の四隅袖付炉など祭祀色の濃い竪穴住居も見られる。集落の中央付近および南側の一定区域には、円礫を雑然と並べた形態の100基以上の配石墓群が小グループごとに造られている。配石墓の中には廃絶した竪穴住居の上に造られたものがあり、集落内の居住域から墓域への部分的な土地利用の変遷がある。

 遺物は、日常生活用の土器や石器とともに装身具や祭祀用具などが膨大な量で出土している。墓域の上には各種遺物破片のほかにイノシシやシカの焼獣骨砕片が多量に散在する。土器は後期後半から晩期末まで連続的に見られる。特に、人面文や目の字文を貼付した土器、特殊な香炉形土器、2000点を超える石鏃とアスファルト付着の鏃、ベンガラを入れたミニチュア土器、400点ほどの耳飾の中でも漏斗状透彫りの逸品と3対のセット、遮光器状の目の土偶、弓矢を持つ人物を描いた線刻石、細型の管玉、翡翠の勾玉、白色軟質の岩版など貴重な遺物が挙げられる。地形や動植物生態系の古環境解析も行われている。

 推定すれば、遠く赤城山や谷川岳を望む山間の河川わきの土地を切り開き、累々と散在する石組みの造作、林立する木柱群、湧き続ける泉、家屋などの建造物の各種施設を独特なデザインで、手間ひまをかけた生活空間として造りあげたのである。その中に、眼前の川と背後の山林を経済基盤として、縄文祭祀を基調とした社会の精神文化や人々の生きざままでもイメージすることができる。縄文ムラの復元修景整備により、体験学習および交流の場としての活用事業を実施している。出土遺物は月夜野町教委に保管されている。〈三宅敦気〉

[文献]
◇『概報矢瀬遺跡』 月夜野町教委 1998

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