| 焼山古墳群(やけやまこふんぐん) |
| 太田市東長岡町(旧字焼山、塩ノ山)にあり、金山丘陵南東側の大小の独立丘陵上に広がる。前方後円墳(焼山古墳)を含む28基からなる古墳群である。1964年に宅地造成に伴って太田市教委が北側の小丘陵頂部の円墳(焼山北古墳)を発掘調査した。埋葬施設は竪穴式石室で、石室内から棗玉、大刀、小刀、刀子、鉄鏃などが出土している。古墳群の中核的な存在である焼山古墳は6世紀初頭に築造されたものとみられる。1977年に太田市史編集室が測量調査し、全長48メートル、後円部直径26メートル、前方部幅30メートルの規模であることが分かった。墳丘の表面から埴輪が採取されることから、埴輪列がめぐる可能性がある。埋葬施設は分かっていないが、赤く塗られていたという伝承があり、盗掘の跡とみられる直径4メートルほどのくぼみが後円部墳頂に残されている。1978年には、学校建設に伴って丘陵南端部の尾根上にあった2基を太田市教委が発掘調査した。調査の結果、この2基は盛土および埋葬施設が残された古墳時代前期の方形周溝墓であることが分かった。南側の1号方形周溝墓では、埋葬施設から碧玉製の管玉が、周溝から複合口縁の壷形土器と広口壷形土器が出土した。2号方形周溝墓では、埋葬施設内から鉄剣と鉄斧が、周溝から複合口縁の壷形土器と広口壷形土器、器台、小型丸底土器が出土している。尾根上にはそのほかにも、連綿と続くように5基の方形周溝墓が見つかり、周溝から複合口縁の壷形土器が出土している。焼山の地名は、周辺に分布する埴輪および須恵器の窯跡群に起因すると考えられ、これらの窯業集団を統率した首長の墳墓が焼山古墳と想定されている。出土遺物は太田市教委に保管されている。〈岡部修一〉 |
| [文献] ◇『群馬県史』資料編3 1981 ◇『太田市史』通史編 原始古代 1996 |