行幸田山遺跡(みゆきだやまいせき)

  渋川市行幸田字石坂、字三重街道にあり、榛名山の裾野に立地する。1982年から1983年にかけて、住宅団地建設に伴って県企業局と渋川市教委が合同で発掘調査した。調査地は三つの痩せ尾根(A、D、E区)、広い尾根(B区)と一つの谷(C区)地形からなっている。旧石器時代から中世にかけての複合遺跡である。旧石器時代の遺物はA区でAs-Srの下層から2点の剥片石器が出土した。打面調整剥片と剥片である。As-BPの最下層部では磨石半欠損品が1点出土した。B区ではローム上層で両刃礫器が1点出土した。

 縄文時代では、中期中葉から後葉にかけての竪穴住居40棟が見つかった。土坑も134基あるが、大半は中期の竪穴住居と同時期のものである。また、早期末と考えられる陥穴も見つかっている。土器は早期終末の茅山式が1番古く、前期黒浜、諸磯式期の土器も出土しているが、この資料に伴う遺構の存在は確認しなかった。A区、B区で中期勝坂式期から加曽利E式期の集落全体が調査された。中期の集落は馬蹄形集落の形態がよく知られているが、6期に区分できる行幸田山集落は中央に集中する集中型集落である。40棟の竪穴住居のうち建て替えや拡張しているものが9棟あり、全体では49棟の住居があったことが分かる。特に加曽利EI式の土器を出す集落の存在は注目される。科学分析で注目されたのは、黒曜石の産地同定である。ほとんどの産地は長野県産であるが、1点だけ伊豆の神津島産のものがあり海を越えた交流があったことが分かる。

 弥生時代の遺物は痩せ尾根と痩せ尾根の間にある谷部で弥生時代特有の石器、石鍬が多数出土した。ここからは弥生時代中期の土器も出土しており、この谷部で畠作などの耕作が行われていたことを推測できよう。

 古墳時代は、古墳がA区で3とD区で1、E区で1の合計5基、E区で方形周溝墓3基が見つかった。A区1号墳は、4世紀後半の方墳である。規模は25.5メートル×20.8メートルで、高さ2.8メートルである。墳頂部では土師器坩による墳頂祭祀が行われている。埋葬施設は盛土中にあり、木棺直葬の土坑墓である。副葬品は、銅鏃2、ガラス玉23、鉄製短剣1、管玉1である。周溝は西側と南西コーナーだけであり、掘り残しの土橋がある。小型丸底甕1、広口壷1、2段口縁の壷などを出土している。その西側に5世紀後半の円墳2基の周溝だけが見つかった。出土品は2号墳で円筒埴輪のほか縄蓆文叩き目を持つ韓式系土器の甕や土師器坏、3号墳で円筒埴輪のほか土師器坏、壷、甕、鉄鏃などがある。D区1号墳は独立丘陵の先端に割竹形の木棺を埋葬した土坑墓である。木箱に入れられ、絹で包まれた直径9センチメートルの内行花文鏡と管玉が出土した。E区は尾根の先端に1号古墳、西に並んで方形周溝墓が3基ある。

 平安時代はC区谷部で竪穴式住居1と掘立柱建物1が見つかった。集落とは完全に隔絶したところにある興味深い資料である。中世は2カ所の痩せ尾根で砦が発見された。砦は南側が腰曲輪をもち本郭が高まり、第2郭は一段低くなっている。北側は中央を溝で区切り本郭と第2郭を分けている。両砦跡とも本郭の先端に土壇という狼煙をあげる狼火台が位置している。また、角閃石安山岩製の石製蔵骨器が出土した。出土遺物は渋川市教委に保管されている。〈大塚昌彦〉

[文献]
◇『行幸田山遺跡』 渋川市教委 1987

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