| 三原田遺跡(みはらだいせき) |
| 勢多郡赤城村三原田にあり、利根川を望む赤城山の西麓末端に立地している。1972年から1974年にかけて住宅団地の造成に伴って県企業局が発掘調査した。発掘調査の範囲は2万1000平方メートルで、縄文時代の竪穴住居333棟と土坑約2000が見つかった。縄文時代の集落のほぼ全体が調査され、関東地方における中期集落の典型例として注目された。竪穴住居は環状に重なりながら見つかっており、食料貯蔵用と思われる土坑は竪穴住居の周辺からやや環状の内部にかけて見つかっている。333棟の竪穴住居の形は、前期と後期の竪穴住居を除いてほぼすべてが円形を基調にしているが、大小の規模の違いやいびつな卵形のほかに隅丸方形と呼ばれる方形に近いものまでさまざまである。これらの竪穴住居のうち中期のものを中心にして平面形による分析が行われ、A型式からH型式の8型式に分類された。そして、同型式に分類された竪穴住居はほぼ同一規格で造られていたことが分かった。また、出土土器の分析によって同一時期には同形態の住居が営まれいてたことも分かった。
H型式に分類された住居は敷石住居である。それまでは敷石住居は特殊な祭祀遺構とも思われていたが、住居分布が他の分布と同一のものであるとの分析結果によって中期末から後期初頭にかけての一般的な住居であるとの結論が導き出されたことは注目されよう。また、この住居型式の分析は縄文時代の集落研究に大きな転換をもたらした。すなわち、三原田遺跡のような大遺跡は「環状集落」の形態を示した大集落とされていた。しかし、三原田遺跡では環状であった時期は加曽利E3式期のみであり、ほかの時期は弧状分布を示していた。いわゆる環状集落は弧状分布の連続的集積の最終状況を示しているのみであるとの結論に達している。さらに、二つの住居型式にまたがって1型式の土器が出土する例をもって各住居型式は連続的変化を示していることを証明し、縄文時代の集落は継続的な定住社会であったことを提唱した。このような研究方法は三原田遺跡の発掘調査で勘案された新機軸であり、現在では「住居型式論」としての研究法として定着している。 出土した土器のうち、B型式の住居から出土したものを中心にして特異な文様構成を見せるものがあった。これらの土器群は従来の加曽利E1式土器の群馬県的地方型と考えて「三原田式土器」と命名されている。 遺跡は住宅団地の建設によって消滅しているが、団地の公園内に敷石住居が復元公開されている。出土遺物は県埋文センターに保管されており、代表的な三原田式土器は県立歴史博物館に展示されている。〈能登健〉 |
| [文献] ◇『三原田遺跡』I・II・III 県企業局 1980・1990・1992 ◇赤山容造「竪穴住居」『縄文文化の研究』8 雄山閣 1982 |