| 三島台遺跡(みしまだいいせき) |
| 桐生市川内町3丁目にあり、渡良瀬川左岸の足尾山地先端部の標高160メートルから180メートルほどの舌状台地上に立地する。台地の広さは南北約300メートル、東西約150メートルの規模で、南側の先端を中心とする平坦部と、その北側に連なる緩斜面、さらに上段部と大きく3分することができる。上段部は縄文時代早期から前期、また緩斜面から平坦部にかけては縄文時代中期、さらに南辺部には奈良・平安時代の集落がある。また、古墳も現存している。縄文時代中期の集落は、平坦部から緩斜面にかけて環状に構成されていたと考えられていたが、最近の調査からは台地の東縁に偏っていることが明らかになった。1964年に桐生高等学校のクラブ活動として、小規模な発掘調査が行われた。1980年には住宅建設に伴って桐生市教委が発掘調査した。850平方メートルの調査区から縄文時代中期の竪穴住居14棟のほか、71基の土坑が見つかり、縄文時代中期における桐生市内最大級の集落であることが分かった。それ以来1996年まで10次、18地点における発掘調査が行われている。住宅建設に先行する事前調査が大半で、1回あたりの発掘面積は500平方メートル前後と小規模で、調査地点も虫食い状態で台地上の各所に及んでいる。1980年の発掘調査ではほとんどが縄文時代中期の遺構と遺物であったが、注目されたのは石鏃の出土量の多さで、縄文時代中期としては異例といえる280点も見つかった。
1986年と1993年の発掘調査では、縄文時代中期前半の五領ケ台式の土器がほぼ完形で4個も発見されている。五領ケ台式土器の完形土器の発見は県内でも例が少なく、しかも縄文時代中期の土器を代表するような優品でもあった。いずれも3基の土坑内に埋設されていたもので、1個体の土器を意識的に打ち壊し、土坑の内側に敷き詰めたような出土状態もほぼ共通するものであった。縄文時代中期前半の様相を知る上で貴重な資料として注目される。1993年調査においては1基の土坑内に2個体の土器が埋設されていたが、1個体の土器を敷き詰め、もう1個体の土器をそのわきに立て掛けたような状態であった。また、1986年に大型の樽形土器が出土した土坑は、この時期としては類例の少ない土版を伴っていた。 これらの三島台遺跡の五領ケ台式期の土坑はいずれも埋葬にかかわるもので、死者の頭部を土器片で覆ったものと推定され、当時の死生観を物語るものとなっている。また、同時期のものと考えられる、頭部と片手を欠損する土偶が発見されている。1990年に発掘調査された縄文時代前期の竪穴住居の炉内に埋め込まれていた土器には、口縁周辺の4カ所に顔が表現され、胴部には両手を広げて土器を包み込んでいるような文様が施された珍しい人体面付土器であった。県内における五領ケ台式期の復元された土器は少なく、さらに土版や土偶なども縄文時代中期前半のきわめて貴重な遺物となっている。三島台遺跡はまだまだ未発掘地が残されており、今後も発掘調査が行われることが十分考えられ、さらに貴重な発見が予想される。出土遺物は桐生市教委に保管されている。〈伊藤晋祐〉 |
| [文献] ◇『桐生市文化財調査報告書5』 桐生市教委 1981 |