満徳寺遺跡(まんとくじいせき)

  新田郡尾島町徳川にあり、利根川の自然堤防上の早川左岸に立地する。満徳寺は、徳川満徳寺と称す時宗の寺であるが、山号院号はない。創建は、鎌倉時代に新田(徳川、世良田)義季を開基とし、義季の娘浄念比丘尼が創建したと伝えられる。それ以後新田一族の子女が住持になっていたが、新田氏の衰退とともに荒廃した。天正19(1591)年徳川家康より徳川郷内に朱印地100石を拝領し、尼寺としての経済的基盤を確立し、徳川家と特別な関係が生じた。また満徳寺は、鎌倉の東慶寺と並んで「縁切寺」とも「駆込寺」ともいわれ、夫の不法に泣く女性を救済するアジール(庇護所)であった。駆け込み女は、尼になって夫との離婚を達成するのが常であったが、大坂夏の陣(1615年)の後、徳川家康の孫(2代将軍秀忠の娘)千姫が、当寺に入寺(実際は侍女が入寺)して豊臣家との縁を切り、本多忠刻と再婚した例にならって、再婚を許容する縁切寺法が幕府に容認されたと伝えられている。当寺における離婚には、足かけ3年(満25カ月)の在寺と引き換えに寺法を発動して、夫から離縁状を強制的に差し出させる寺法離縁と、寺の仲介、説得により当事者双方が示談で離婚を成立させ、妻は入寺せず直ちに親元に引き取られる内済離縁とがある。満徳寺は、徳川将軍家との関係から、「尼寺御所」「時宗一本寺」「御朱印寺」「御位牌所」「御修復所」という寺格と性格があった。江戸幕府の崩壊により、庇護者を失い、周辺の廃仏毀釈の影響もあり、明治5(1872)年に廃寺になった。江戸時代当初からの伽藍は、文化6(1809)年に隣家の火災により類焼し、すべてを消失した。廃寺後は、歴代住職の墓と、旧本堂を利用した集会所だけを残すのみであった。

 1987年に組織された徳川満徳寺史跡整備基本計画策定委員会において、史跡整備の基本計画が策定され、土地の公有化、本堂の移築復元、駆込門などの門や黒塀などの新築、旧伽藍のランドマークの設置、庭園の整備、資料館の建設などが決定した。また、復元整備する建物やランドマーク、庭園などは、文化6年の火災後に再建された当時のもの(廃寺の時)とし、建物の位置は発掘調査による成果を基にして、文献、古図(文政度御修復之在形之図、浅井鉄五郎らによる境内図など)などで補うこととした。

 1989年から1994年にかけて、史跡整備に伴って尾島町教委が発掘調査した。主な調査遺構は、本堂基壇および礎石、玄関部分の礎石、庫裡の礎石、土蔵の礎石、池、駆込門の礎石などである。隠居所、御供所、寺役場、役人部屋、中間部屋などは、トレンチ調査を行ったが、耕作などによって壊されており確認できなかった。また調査は、遺構の最終使用時(明治初期の廃寺時点)までの調査であり、下層については未調査である。本堂基壇は、東西約14メートル、南北約16メートル、高さ0.5メートルで確認できた。基壇の版築面の上層に存在する焼土、炭化物層から、文化6年の大火災の後に本堂を再建するにあたり、整地作業を行い、若干の盛り土を行ったのみで、本堂を再建したことが分かった。本堂基壇上で確認された礎石は、濡れ縁部分を含めて88個である。確認された礎石の間隔が、1メートルか2メートルであるため、本堂は柱間1間を6尺5寸(1.97メートル)の基準で建てたと考えられる。柱間1間を6尺5寸とすると「文政度御修復之在形之図」と、発掘により見つかった遺構配置が、本堂、玄関、庫裡部分で一致する。玄関部分では、礎石と羽目板を押さえる列石が確認できた。庫裡部分は、部分的な調査であるが、後世の攪乱により礎石などの残存状況はよくなかった。礎石検出面で、焼土、炭化物が薄く確認できたことから、文化6年の火災の後、盛り土などの作業を行わず、そのまま庫裡を再建したことが分かる。本堂、玄関、庫裡部分で確認された礎石は、いずれも小さく、根石も伴わず、文献上に現れる「御仮建普請」の記述と一致する。出土遺物は尾島町教委に保管されている。〈須永光一〉

[文献]
◇高木侃『縁切寺満徳寺の研究』 成文堂 1990
◇『縁切寺満徳寺資料館解説書』 縁切寺満徳寺資料館 1992

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