| 前橋城遺跡(まえばしじょういせき) |
| 前橋市大手町の群馬県庁内にあり、現利根川左岸の前橋台地上に立地している。1992年から1996年の間に7次にわたり、県庁舎の新築に伴って県教委が発掘調査した。総面積1万6340平方メートルを発掘調査し、縄文時代から江戸時代にかけての遺構、遺物が見つかった。主な遺構としては縄文時代の河川、平安時代の竪穴住居、溝、土坑、戦国時代の厩橋城の堀と溝、江戸時代の前橋城の堀と石垣、溝、建物、井戸、土坑などがある。遺構の中で注目されるものとして、平安時代では200メートル以上にわたってほぼ直線状に平行する幅約70センチメートルから1メートル、深さ約50センチメートルの逆台形状の2本の溝があげられる。溝には一部で重複が見られ、時期差があるものと考えられるが、出土遺物から廃棄時期がどちらも9世紀後半であり、短期間での造り替えが行われたとみることができる。このような溝は県内では例がなく、今後の研究や発掘でその意味づけをしていく必要がある。
前橋城関係の遺構では幅約22メートル、深さ約7メートルに及ぶ酒井氏時代(1601-1749)の二の曲輪を囲む大規模な堀をはじめ、当時の絵図面とほぼ同じ位置に、各調査区で堀が見つかった。また堀の内部の5カ所で石垣が見つかったが、文献や絵図上には堀内部の石垣の存在はしるされておらず、前橋城の構造を知る上での重要な発見となった。特に第4次調査で見つかった酒井氏時代の三の門に付随する石垣は、堀が三の曲輪側に「コ」の字状に折れて平らになった部分に設けられ、全長約45メートル、高さ約2.5メートルの規模で、石垣の中央部には張り出しが付き、その先には橋脚が残っていた。また石垣の多くは建物の廃材を基礎としており、自然石を利用した野面積か、やや表面を加工した打込はぎで積まれ、隅部を長大な石を交互に重ねた算木積で強化する形式であった。堀と石垣には各所に改修の跡があり、二の曲輪をめぐる堀の底部には建物や橋梁の廃材を利用した堀壁の大規模な補修の跡があった。堀の一部は廃城期(1767-1867)に天明3(1783)年の浅間山噴火による泥流が流れ込んで埋没しており、その後に水田耕作が行われたことも確認され、文献や絵図を裏付ける結果となった。また記録にない堀も発見された。これは形状や出土遺物から、江戸時代の前橋城の前身とされる戦国時代の厩橋城の堀と考えられ、前橋城が厩橋城の堀を利用しながら全く異なった城に造り変えられたことも判明した。その他の遺構としては幕末に再築(1867年竣工)された松平氏への城主交代の時期に三の曲輪に築かれた御殿(1572年上棟式)のものと思われる庭園の池などがあり、前橋城に関する遺構が数多く発見された。 出土した遺物には多量の陶磁器と瓦、石製品、木製品、金属製品があるが、中でも注目されるのが第5次調査7号井戸から出土した2枚の木簡である。木簡は長さ20センチメートルほどで、1枚は17世紀中ごろに4代藩主酒井忠清の筆頭家老であった高須隼人にあてた荷札と考えられ、江戸時代前期の前橋城において木簡が荷札として利用されていたことが明らかとなった。三の門の石垣ほか1カ所は原状のまま埋め戻し、保存している。出土遺物は県教委に保管されている。〈片野雄介〉 |
| [文献] ◇『姿を現した前橋城』 県教委 1995 ◇桜岡正信「群馬・前橋城遺跡」『木簡研究』17 1995 ◇『前橋城遺跡』I 県教委 1997 |