| 藤岡市下日野・金井窯址群(ふじおかししもひの・かないようしぐん) |
| 藤岡市街の西南方約8キロメートルに位置する金山周辺の谷筋にある。この地域は、関東山地に連なる山々が平野部に接する地形で、山地地形から丘陵地帯となり、鮎川や鏑川に注ぐ多くの支流や支谷がある。この丘陵地帯には多くの窯跡があり、吉井町五反田窯跡を含む周辺一帯は「藤岡・吉井古窯跡群」とも称される。1986年から1987年にゴルフ場建設に伴って鈩沢遺跡調査会が発掘調査し、合計16基の窯と4基の製鉄炉が確認された。これらは五つの谷に分かれて分布し、それぞれをa・c・d・f・g地点とした。
a地点は金山の西方にある丸山と呼ばれる山の東の沢沿いに立地し、2カ所で窯が発見された。下流に位置するa2地点からは3基の窯と1基の製鉄炉が見つかり、上流で別の沢が合流するa4地点では、窯1基が調査された。a2地点で見つかった窯SY-1・2・3は、沢の崖上の平坦部に造られていた。SY-1は造り替えが認められ、新しい時期の窯は、全長6メートル74センチメートル、幅146センチメートルの規模で、焚口付近の両側に石積みが認められ、焼成部の中ほどには瓦が4枚から5枚立て掛けて並べられていた。特徴的な遺物として、覆土からの出土であるが、径20センチメートル前後で環状の鈕と返りを持つ蓋が挙げられる。SY-2は、確認された全長が2メートル18センチメートル、幅1メートル8センチメートルと小型な窯であった。壁や煙道はほとんど確認されず、坏が多量に残されていたことから、焼成後か焼成中の最後の段階に天井が崩落したものと推定される。坏の置き台として重弧文の瓦などが使われていた。a4地点から見つかったSY-4は、緩斜面に造られ、煙道付近の床に石が敷かれた構造であった。 C地点は、鈩沢の集落から500メートルほど上流にある吉井町谷組へ至る山道の南斜面に位置する。SY-7が調査され、SY-9・10・11の3基は、焚口付近を確認した。d地点はC地点からさらに谷組方向へ山道を下った途中のやや広い沢の南斜面と、この沢の北側の山の南斜面の中腹の急傾斜地を占める。前者をd1地点とし、円形竪型炉と呼ばれる製鉄炉が3基見つかった。後者はd3地点とし、SY-14のみ1基が調査された。SY-14は、今回の調査で最大の窯で、全長約7.5メートル、煙道の高さ約3メートル。d1・d3地点からは、直径12センチメートル前後で環状または擬宝珠状の鈕を持つ小型の蓋が出土している。 f地点は、a地点・d地点とつながる沢で、d地点の下流に位置する。吉井町の谷組から入る沢で、谷は広く開けており、窯は谷の北側の急斜面下に造られ、SY-12・13の2基が調査された。 g地点は、金山の北側斜面にある沢に位置し、中原の金山瓦窯の上流にある。5基の窯が調査され、2基(g1地点)と3基(g2地点)とに分かれて位置していた。g1地点(SY-6・8)の灰原からは、瓦が多く出土し、下流に位置する金山瓦窯から出土しているような文字瓦なども出土した。g2地点からはSY-15・16・17が並んで造られていた。 以上の窯群から見つかった遺物は、坏、碗、蓋、壷、平瓶、甕、硯、平瓦、丸瓦、軒平瓦、軒丸瓦など多種多様である。窯群の操業時期は、SY-14やSY-1などの出土遺物が最も古く、7世紀末から8世紀初頭ごろに開始され、9世紀代までの約200年間続いていたと考えられる。d1地点から見つかった3基の製鉄炉は、8世紀代の操業と推定され、調査中に砂鉄状の塊が確認されたことから砂鉄を原料としたものと想定された。今回の調査では炭窯は見つからなかったが、鉄滓は大量に出土している。出土遺物は藤岡市教委に保管されている。〈古郡正志〉 |
| [文献] ◇『藤岡市史』資料編 1993 |