平井城跡(ひらいじょうあと)

  藤岡市西平井字新曲輪、金井字笹曲輪地内にあり、標高は145メートルから150メートルほどのところにある。上野国守護を兼ねた関東管領山内上杉氏の居城であったこの城は、鏑川の支流である鮎川の西側断崖上に立地し、南西よりせまる関東山地から平野に続く出口部に築かれている。この城の北東約2キロメートルには、中世の主要路であった鎌倉街道が横切る。また、関東山地へ連なる日野地区の山間部には多くの山城が築かれ、その谷間を通る峠道は佐久方面へ通じている。平井城の築城時期については諸説があるが、主に2説が有力視されている。一つは『喜連川判鑑』にもとづいて、永享の乱があった永享10(1438)年には、上杉憲実の命によってすでにこの城が築城されていたという説であり、もう一つは『鎌倉九代後記』などによる応仁元(1467)年に上杉顕定が築いたとする説である。いずれの文献史料も後世のものであることから、その史料的評価に問題があるが、歴史的な状況からみて、憲実時代に築城された可能性が高いと考えられている。平井城は天文21(1552)年春、後北条氏に攻められ、城主上杉憲政が越後の長尾景虎のもとへ敗走した時点で、関東管領の城としては終焉を迎えた。その後、永禄4(1561)年に後北条氏支配下から奪還され、長尾景虎によって廃城にされたと伝えられているが確かな史料はない。

 現在の平井城跡は、城郭遺構が著しく壊され、土塁がわずかに遺存するのみで堀はほとんど埋められており、その構造(縄張り)もなぞに包まれている。1995年度と1996年度に史跡保存整備事業に伴って藤岡市教委が主郭部(通称本丸)の確認調査を行い、裾部に石積みされた土塁、横堀、側面に石垣を積んだ竪堀、橋脚台、掘立柱建物、竪穴遺構、トイレ遺構などが見つかった。主郭部は、ほぼ真南を頂点とする直径100メートル弱の五角形で、県道を挟んだ西側に「二の丸」と呼ばれる副郭があり、その南側に通称「ささ郭」という副郭が南北に連なる。現状では、この二つの副郭が造られた面は主郭のある面より2メートルほど高い構造となっている。主郭部の西側から北を経て東側にかけて土塁と横堀がめぐらされている。このうち西側の横堀が県道となっており、県道に沿って唯一残存する主郭部の土塁がみられる。主郭部の北側は、土塁を挟んで横堀が2重にめぐらされていることが、文化13(1816)年に描かれた『上野国西平井旧城』という古絵図からうかがえる。構造的にみてこの土塁は「二の丸」とつながっているものと推定され、その東端の約3メートル下には、堀切を挟んで小規模な郭が築かれている。主郭部の東北部付近では土橋、竪堀、橋脚台遺構が確認された。この部分は平井城跡の縄張りの中で、最も複雑な構造となっている。さらに、2重堀の北側の地区は、かって「殿小路」という小字名で呼ばれていたことなどから、この付近に主郭部への虎口が想定されている。また、2重堀の間の土塁には虎口に至る通路的な機能があったと考えられている。土橋の南には南北35メートル×東西18メートルの長方形の郭がある。この郭は、虎口との関連から「馬出し」的な役割を担うものであろう。一方、搦手口は不明であるが、平井城の副郭の配置構造や、西南約1.2キロメートルの金山に、詰め城と考えられている平井金山城があることなどからみて、二の丸とささ郭が連なっている主郭西南部に搦手口を設けていた可能性が高い。虎口の想定に深くかかわる橋脚台遺構は、横堀の大改修に伴うもので、この時期に城内の構築面が大規模に造り替えられていることが分かっている。したがって、こうした縄張りは、16世紀の中ごろから後半に至る平井城在城の最終段階ごろの形態と推定されている。

 現在、遺物整理中であるが、築城時期に関連する出土遺物に、15世紀半ば過ぎの緑釉陶器などの遺物がある。このほか、縄文時代草創期、前期の遺物や主郭部に建立された「文殊院」という寺に関連した江戸時代中ごろから後半ごろを中心とした陶磁器類が多数出土している。出土遺物は藤岡市教委に保管されている。〈田野倉武男〉

[文献]
◇『年報』12 藤岡市教委 1996

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