| 東日野金井城(ひがしひのかないじょう) |
| 藤岡市高山地区から金井地区にかけて築かれた城。鮎川南側にある標高287メートルの山頂から山麓を占め、鮎川を挟んで山内上杉氏の居城であった平井城ならびに平井金山城と近接する。東日野金井城は山頂と尾根部に築かれた天屋城(高山城)、山腹にある要害山城、山麓の鮎川断崖上に位置する百間築地の砦で構成された複合城である。1987年にゴルフ場造成事業に伴って藤岡市教委が天屋城の一部を発掘調査し、大小の曲輪、土塁、虎口、通路、堀切と橋柱穴、畝堀(障子堀)などが見つかった。東日野金井城の縄張りは、1972年に山崎一によって明らかにされた。1987年には詳細な踏査が行われ、この城はライン状に囲まれた城郭であることを確認し、新たな縄張りが発表されている。この城は高山地区に館を構える高山氏の山城と考えられている。高山氏は平安時代末に「高山御厨」を統治するため、秩父権守重綱の子、三郎重遠が武蔵国から当地へ来たのがはじまりといわれ、その後、山内上杉氏の支配下となったが、平井城主上杉憲政が後北条氏に敗れ越後へ逃走した後は、後北条氏、長尾景虎、武田信玄、滝川一益配下を経て、再び後北条氏の勢力下となり、天正18(1590)年の小田原の役では後北条方として奮戦した。堀切や畝堀などは戦国期の遺構形態とみられ、このころ大規模に改修された可能性がうかがえるが、改修規模は、高山氏のような国人クラスのみではなしがたいものと考えられている。とくに畝堀(障子堀)は、小田原城、山中城などをはじめとする後北条氏勢力下の城郭において、多用された築城法である。豊臣軍の小田原征伐に備え、関東の主な城郭が後北条氏によって整備、改修されたことが近年明らかとなっている。東日野金井城もこの時に改修されたものであろう。この城は小田原の役後、廃城となったと伝えられている。出土遺物には、土師質皿、内耳鍋、石臼などがある。出土遺物は藤岡市教委に保管されている。〈田野倉武男〉 |
| [文献] ◇山崎一『群馬県古城塁址の研究』下 1972 ◇松岡進「戦国期城館遺構の史料的利用をめぐって」『中世城郭研究』2 中世城郭研究会 1988 ◇『年報』4 藤岡市教委 1989 |