半田中原・南原遺跡(はんだなかはら・みなみはらいせき)

  渋川市半田字中原、字南原にあり、榛名山の裾野の扇状地と吉岡川の自然堤防状上に立地している。1994年から1995年に工業団地造成に伴って市教委が発掘調査した。縄文時代早期の陥穴遺構、前期の集落、中期から後期にかけての遺物包含層、弥生時代中期から後期にかけての遺物包含層、古墳時代中期末と後期の古墳群、奈良時代の集落(牧)、平安時代集落などが発見された複合遺跡である。縄文時代の遺構は、竪穴式住居28、土坑194がある。早期末の陥穴3基がこの遺跡で最古の遺構である。前期前半の関山式期、黒浜式期の竪穴住居は12棟あり、関山式期の竪穴住居は、旧地表面から住居床までが約2メートルと深いことが特徴である。前期後半の諸磯式期には竪穴住居5棟があり、再び集落が営まれている。次に中期初頭の竪穴住居3棟があり、後期堀之内式期の土坑を最後に縄文時代の痕跡はなくなる。古墳は、5世紀後半と7世紀の2時期の群集墳がある。

 5世紀後半には2基の円墳と2基の土坑墓と1本の道がある。古墳は墳頂まで火山灰の堆積があり、さらに土石流などがその上を厚く覆うため、当時の地表面が良好に保存されていた。古墳の墳頂には竪穴式石室が設置されているが、2基とも土の被覆はなく、石室が露出した状態であった。渋川市は空沢古墳群や坂下町古墳群などに見られるように積石塚の分布圏であり、埋葬施設の露出はこれと関連を持つとも考えられる。26号墳は円墳でありながら、墳丘の裾を人が四角に歩いた道が見つかった。この古墳の規模は、周溝外縁立ち上がりで直径15メートル弱である。墳頂部の竪穴式石室は東西に主軸を設けており、石室規模は内側で長さ2.25メートル、幅0.40メートル。石室内から直刀、鉄剣各1点、鉄鏃2点が出土した。27号墳は葺石があり、墳頂部に10本の円筒埴輪列を持つ。一部はもとの位置を保っているが、ほとんどは崩れて、墳丘の途中や周溝の内に落ち込んでいる。古墳規模は周溝外縁立ち上がりで直径12.5メートルである。墳頂部の竪穴式石室は東西に主軸を持ち、石室規模は内側で長さ1.49メートル、幅0.3メートルである。石室内に遺物はなかった。古墳のわきには土坑墓があり、古墳と土坑が1セットであるかのような配置である。どのような差をもって埋葬施設が違うのか興味がもたれる。

 7世紀後半の古墳群は直径15メートル以下の26基の円墳が確認された。埋葬施設は横穴式石室であるが、破壊が進んで残りの悪いものである。出土遺物も須恵器甕、長頚壷、提瓶、高盤、土師器坏、鉄製角釘、刀子、火打ち金、鉄鏃などと少ない。奈良・平安時代には、確認された部分だけでも6万平方メートル以上という広大な土地を取り囲む溝がある。この溝はさらに調査地外に延びており、区画された全体の広さは10万平方メートルを超えるものと考えられる。溝の内側には遺構がなく、平安時代の『延喜式』にある9カ所の上野国御牧の一つ「有馬島牧」の推定地にあたるところからこれを牧場として使用された区画ではないかと考えられている。さらにエリアを広く見て、午王川、吉岡川、利根川に囲まれた自然地形そのものを牧と考えることもできる。この区画の東には多くの集落がある。

 奈良時代は、200メートル離れて竪穴住居群が南北に分かれて見つかった。北側は竪穴住居62、掘立柱建物7があって牧に従事した人たちの生活空間と想定され、南側は竪穴住居23棟の中に大型住居が含まれ、掘立柱建物30棟の中に4面庇の大型建物があることなどから、この牧場を管理統括していた牧長の生活地兼職務地にあたるものと考えられている。馬に関係した資料として竪穴式住居内から馬の歯十数点が出土している。顎骨に付いたものや鉄製馬具類もあった。牧場の管理に必要不可欠とされる鉄鎌が十数点と多く出土していることなどもあげられよう。銅製巡方も出土しており、このムラを統括していた役人の存在が示唆される。須恵器の高盤が五十数点分と非常に多いこと、南関東地方で見られる盤状坏が県内で初めて発見されたことなども特徴的であり、外部の影響を受けた計画的村落である可能性が示されている。本遺跡で発見された長さ400メートル以上の地割れや陥没は、奈良時代8世紀後半の竪穴住居を壊し、一方平安時代9世紀後半の竪穴住居が地割れの上に造られていることから、弘仁9(818)年の大地震によるものであることが確認された。地震後の9世紀後半から11世紀にかけての竪穴住居も80棟ほど見つかっている。出土遺物は渋川市教委に保管されている。〈大塚昌彦〉

[文献]
◇『半田中原・南原遺跡』『半田南原遺跡』 渋川市教委 1994
◇『渋川市誌』2 1994

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