| 芳賀東部団地遺跡(はがとうぶだんちいせき) |
| 前橋市鳥取町、小坂子町、五代町にまたがる。赤城山南麓の、東西を狭い谷地に挟まれた三つの細長い台地上に立地する。工業団地の造成に伴って、1976年から1980年にかけて芳賀団地造成地内埋蔵文化財発掘調査団が発掘調査を行った。縄文時代、古墳時代、奈良・平安時代の集落、中世の地下式土坑、近世の墓などが見つかった。調査範囲は約32万7800平方メートルで、三つの台地を含むが、それぞれの台地ごとに遺跡の性格が異なる。中心となる谷東、谷西台地の古墳時代、奈良・平安時代集落のほか、芳賀東部団地遺跡全体では縄文時代の竪穴住居60(前期初頭、後半、中期末、後期前半)、土坑140、中・近世の土坑297、地下式土坑4、井戸20などが見つかっている。出土遺物は前橋市教委に保管されている。
谷東は古墳時代前期から中期の集落(竪穴住居73)、奈良・平安時代の集落(竪穴住居109、掘立柱建物63、製鉄跡2)、古墳時代終末期の古墳4などが見つかった。このうち、奈良・平安時代の集落について、興味深い結果が得られている。この集落は8世紀初頭ごろ、台地東縁辺の谷地を望む位置に、集落中核者の住まいとみられる大型竪穴住居を中心とするようにして突然出現する。集落形成以前は終末期古墳が造られた墓域の一画だった所である。谷西でもこの時期になると、大型竪穴住居を中心に、やはり東側の谷地を望む地に集落の進出したことが確かめられている。いずれも集落の立地が東側の谷地の水田開発と関連し、その開発が有力者を中心に行われ、時期的に見てそれが律令時代の開始とかかわっていることを示唆している。谷東の竪穴住居は10世紀前半までは徐々に増加するが、同後半になると18棟からわずか2棟に激減し、11世紀前半を最後に消失する。一方、谷西の台地では、9世紀中葉に最盛期を迎え、以後11世紀後半までは徐々に減少する。隣接する台地間での集落のあり方に違いを見せる。掘立柱建物は、谷地を望む上記大型竪穴住居を含む支群を中心に、有力者の住居として遅くとも8世紀後葉から9世紀前葉ごろには出現した。さらに10世紀前半までには、全体の3分の2の支群にまで広がった。倉庫とみられる総柱建物は、掘立柱建物の多い支群に認められる。なお、製鉄跡(製錬・鍛冶各1基)は、いずれも9世紀中葉のものとみられる。〈唐澤保之〉 谷西は古墳時代後期の竪穴住居23、奈良・平安時代の竪穴住居282、掘立柱建物138、鍛冶跡3などが見つかったが、谷東と合わせて15期の変遷をたどることができる。まず6世紀中ごろ、次に後期の竪穴住居がそれぞれ1棟見つかった。集落としての形は、7世紀前半に、調査区南寄り中央やや東側に始まる谷地を望む西谷寄りの台地高所で、1棟の大型竪穴住居を含む9棟の竪穴住居群から始まる。谷東にある古墳と同時期と考えられる7世紀後半にも、ほぼ同じ規模の竪穴住居の分布が見られる。8世紀には、竪穴住居の数は15棟前後で変遷し、谷東の台地にも進出している。9世紀に入ると住居の数は倍増し、分布規模も広範囲となる。9世紀中ごろにこの集落は最盛期を迎え、82棟の竪穴住居が造られた。これは律令国家の最盛期と重なる。以後徐々に減少し、11世紀の後半の5棟を最後に全くなくなる。このような竪穴住居の数の移り変わりの中で8世紀初めからは東に谷地を望む所に出現する掘立柱建物群と大型住居との関係なども考えられ、律令体制と深く結びついた有力者を中心とする谷地の水田開発を基盤とした集落の変遷をたどることができる。〈前原照子〉 中央は縄文時代から近世にいたる複合遺跡である。縄文時代の竪穴住居は前期の黒浜式期1棟と諸磯式期3棟である。芳賀東部団地遺跡では同時期の遺構が数棟でグループを形成する傾向が見られた。また、中世の遺構としては、地下式土坑が4基見つかっている。いずれも主室は円形で、東に階段状の入口を持つ。台地の北半の西側に南北に並んでいる。これらは、重複関係から居館よりも古いものである。居館とみられる堀はこの地を2重の区画で区切り、南中央部には橋とみられる、犬走り状の遺構が認められた。遺物として龍泉窯系の磁器片が出土している。近世では墓坑が約100基見つかった。近世には墓域として使用されていたとみられる。副葬品は若干の銅銭が見られた。〈井野誠一〉 |
| [文献] ◇『芳賀東部団地遺跡』I・II・III 前橋市教委 1984・1988・1990 ◇『群馬県史』通史編2 1991 |