| 南蛇井増光寺遺跡(なんじゃいぞうこうじいせき) |
| 富岡市南蛇井字血の池、字増光寺、中沢字久保界戸、字中里にある。鏑川左岸の下位段丘上に立地する。南は鏑川との比高30メートルの段丘崖で区切られ、北は中沢川を境として中沢平賀界戸遺跡と接している。1988年と1990年から1992年にかけて、上信越自動車道の建設に伴って県埋文事業団が2度にわたって発掘調査した。発掘調査面積は2万9000平方メートルに及び、縄文時代前期から平安時代に至る約790棟に及ぶ竪穴住居、縄文時代の配石遺構や土坑、弥生時代の方形周溝墓、中・近世の大溝などが見つかって、鏑川流域有数の規模を誇る大複合遺跡であることが分かった。
縄文時代の遺構としては、前期黒浜式期から後期堀之内式期にかけての住居が約72棟見つかり、中期末から後期の敷石住居も比較的良好な状態で見つかっている。そのほか、配石遺構、土坑、埋甕が見つかっている。出土遺物としては、硬玉大珠、独鈷石、石棒などがあげられる。弥生時代中期の竪穴住居は4棟ある。これらはいずれも鏑川の段丘崖に近いB区の南半部にあり、出土遺物からいずれも中期後半の竪穴住居と考えられる。出土土器には阿島式あるいは須和田式土器に類似した壷形土器や長野県の佐久地方の影響を受けたとみられる土器なども出土している。そのほかの遺物としては、87号住居で出土した扁平片刃石斧、太型蛤刃石斧が注目される。後期の竪穴住居は約181棟見つかっている。後期の集落としては県内でも最大規模を誇るものである。住居内から多数の弥生土器が出土している。土器の多くは樽式土器を主体とする。しかし、本遺跡ではこれらの土器に交じって縄文施文土器、櫛描横羽状文、斜走文施文土器も出土している。本県地域では弥生時代後期の樽式土器に櫛描横羽状文、斜走文が施される例は少ない。しかし、長野県の佐久地方では栗林式土器を出自とする櫛描横羽状文、斜走文が吉田式の主文様として盛行し、途切れることなく後期の新しい段階まで継承され、古墳出現期に終焉を迎える。これらは、信州の他地域では見られず、佐久地方の地域的特色となっている。これらの点を考慮すると本遺跡と佐久地方との深いつながりが想像される。縄文施文土器も多数出土している。器種は壷、甕、台付甕が確認されている。赤井戸式、吉ケ谷式の土器と考えられる。そのほか特筆される遺物としてはB-98号住居より出土した石包丁があげられる。県内では石包丁の出土例は少なく重要な遺物である。材質は珪質頁岩で両面から穿孔が認められる。刃部片面には使用痕と思われる鋭い光沢が認められる。 古墳時代から平安時代にかけての竪穴住居は約535棟が見つかっている。古墳時代の竪穴住居は約200棟が見つかっているが、前期、中期のものは認められず、すべて後期の所産である。後期の集落についても周辺にまとまって確認された遺跡はなく、南蛇井増光寺遺跡が拠点的な位置を占めていたことが想定される。また、本遺跡の南西に接して、長軸約800メートル、短軸約400メートルの範囲に広がる南蛇井古墳群があり、この集落に伴う墓域と考えられている。奈良・平安時代においても前代から引き続き集落が営まれた。遺跡の東に広がる「吉田たんぼ」と呼ばれる水田地帯は条里制に基づく土地区画を思わせ、本遺跡に伴う生産域の可能性も考えられる。また、大字名の「なんじゃい」を『和名抄』に見られる、那射(なさ)に比定する説もある。 中・近世の遺構としては、断面箱薬研の大型の溝がL字形に見つかっている。そのほかの遺構としては、As-Bを覆土に混入する掘立柱建物などがある。さらにC区北端では、大溝南側に平行するような形で、道路状遺構、これに接するように灰釉四耳壷を伴う中世墓が見つかった。出土遺物は県埋文センターに保管されている。〈伊藤肇〉 |
| [文献] ◇『南蛇井増光寺遺跡』I〜IV 県埋文事業団 1992〜1996 |