| 成塚住宅団地遺跡(なりづかじゅうたくだんちいせき) |
| 太田市成塚町にあり、於入、南又木、川向、明神東、明神前、諏訪、岩穴、田中、下新田と九つの小字にまたがる。東武鉄道治良門橋駅の北北西の方向にあたる。主要地方道伊勢崎・足利線を足利方面に東に進み東武鉄道桐生線の踏切を渡ると開ける田園地帯の北側一帯の地域である。発掘調査前にはこの遺跡はこの地域に住む高校生によって採集された縄文後期の土器群で知られていた。そのほかにこの遺跡の縄文土器は、薮塚本町歴史民俗資料館や梅沢重昭によって採集され、県立歴史博物館に所蔵されているものもある。本格的な発掘調査に入る前、遺物の分布の範囲から遺物の中心地は10万平方メートルと比較的狭い範囲と認識していた。ところが発掘調査の結果、成塚地域では最も遺存の良好な遺跡であることが判明した。桑園を中心にした畑作地域の微高地上に16万平方メートルに及ぶ大規模な範囲に縄文時代から平安時代までの複合遺跡が展開していることが明らかになった。またこの遺跡は南西方向、治良門橋駅周辺にも及ぶことが分かった。さらに東側、この地域は金山丘陵・八王子丘陵の西側に沿って流下していた旧渡良瀬川の流路の大きな屈曲部分にあたり、未調査区域の大字北金井や大字強戸地域にも遺跡の範囲が広がることが予想される。これらの調査は太田市教委と成塚住宅団地遺跡発掘調査団の二つの調査組織によって行われた。予備調査は1986年に太田市教委が実施した。本調査は1986年から1990年まで太田市教委が2万4000平方メートルを発掘調査し、1987年から1988年まで成塚住宅団地遺跡発掘調査団が7万6000平方メートルを発掘調査した。一つの遺跡を二つに分けて発掘調査、資料整理され、刊行された。その報告書の成果を一つの遺跡として把握し見つかった遺構をまとめてみると、竪穴住居1453、掘立柱建物8、居館1、方形周溝墓5、井戸89、溝157、古墳3、円形周溝3、埴輪窯3、土坑819+α、その他1となる。
縄文時代の遺跡は北側に集中するA群と旧河川沿いに疎らに分布するB群に分けられる。いずれも縄文時代中期後半に属するもので14棟の竪穴住居が見つかっている。中期後半から後期、晩期の時期、沖積低地に集落が進出する傾向が太田地域でうかがえる。宝泉堂原遺跡や内ケ島目塚遺跡などである。1961年に梅沢重昭によって農地の区画整理中の畑部分、成塚稲荷神社から東へ200メートルの位置から加曽利E4式の土器が採取された。現在、県立歴史博物館に所蔵されている資料の地点がB群、さらに北北東の地点に集中している地点がA群である。 弥生時代後期後半の竪穴住居が7棟ほど確認されている。南関東系土器、赤井戸式土器、樽式土器が伴出しており群馬県におけるこの系統の土器の分布と組み合わせを知る遺跡として重要である。特に注目される樽式土器の文様は、簾状文はなく、緩やかな波状文を胴上半に施している屈曲の弱い甕である。 古墳時代前期の集落は竪穴住居94棟が見つかっている。扇状地を蛇行する河川の下流域に集中的に分布する。これらの竪穴住居に伴う方形周溝墓や円形周溝墓は河川の上流、集落を取り巻くような分布が見られる。古墳時代中期の集落は竪穴住居約356棟が見つかっている。扇状地を蛇行する河川の下流域、二股に分岐する河道周辺に集中的に分布する。この時期、居館と呼ばれる「コ」の字形に区画された溝が見つかっている。区画内から集中して古式須恵器を伴う住居が多いことなど豪族居館としての側面も指摘されるが、報告者は区画内集落との見方を採っている。また、西南の周溝の上に旧強戸村147号古墳が乗っており溝埋土からの出土遺物の時期とともに居館は極めて短期間に使用されたものと考えられる。古墳時代後期の集落は竪穴住居約266棟が見つかっている。発掘区の南側に広がり、北側からの発見は少ない。 飛鳥・白鳳時代の集落は竪穴住居113棟で、発掘区の南側、それも東と西に分かれて分布する。周辺には東山道が通過し、寺井廃寺供給瓦生産遺跡や寺井廃寺などの7世紀後半代からの同じ時期の遺跡がある。瓦など寺院に関連する遺物があまり出土していない。奈良時代の集落は前代よりも竪穴住居の数が増加して、約370棟見つかっている。発掘区の南側、それも西側に集中する傾向にある。平安時代前期の集落は発掘区の南側全体に、まばらに分布する。約161棟と前代より減少する。平安時代中期の集落は発掘区の中央寄り、それも前代の平安時代の前期よりもさらに集落の数は少なくなり、約36棟あり、そして分布はまばらになる。平安時代の後期に該当する竪穴住居は確実には1棟のみである。本遺跡ではこれ以降の時代の遺構は見つからなかったが、泥面子など近世の遺物が採集されている。 本遺跡からは膨大な遺物が出土している。各住居との組み合わせは報告書に譲りここでは本地域では珍しい遺物の一部を紹介する。旧石器時代の遺物は比較的低台地からの出土があった。後期の木葉形尖頭器、エンドスクレーパーが採集されている。縄文時代草創期の柳葉形尖頭器が採集されている。この時期に所属する土器の出土はなかった。古墳時代前期に属する南関東系、または東海東部系の壷形土器が数点、東海西部系の当地域では石田川式土器の中核をなすS字状口縁甕形土器に共伴している。古墳時代中期の遺物として初期須恵器が出土している。特にコップ形の器形は珍しい。子持勾玉が出土している。県内では約50点ほど文献上で数えることができる。本遺跡に近似するものは箕郷町出土のもので黒色、円圏文を全身に刻む。形式的には本遺跡のものが古相である。古墳時代後期に属する遺構から埴輪窯で焼成された竈用袖材が多量に出土している。太田、新田地域ではこれらに類似の製品が住居から出土することがある。周辺に埴輪窯があり、古墳への祭葬用具としての埴輪類供給以外に日常用品の生産にも関連していることは注目されてよい。また一般の集落内に極めて簡便な埴輪窯が構築されている。約100メートルの至近距離に埴輪を持つ古墳群の存在が確認されており、これらの古墳への供給先の関連も含めて今後の検討が期待される。律令期の土器として金属器、佐波理鋺模倣の須恵器や官衙からの出土の多いとされる陶硯が5点ほど出土している。平安時代の遺構から当地方では出土例の少ない須恵器製の羽釜と甑が多様な組み合わせで出土している。とにかく古代の住居だけでも1500棟と県内でも最大級の遺跡の調査であった。報告書の報告内容もあまりにも資料が膨大すぎて基礎資料の紹介にとどまっている。今後の本遺跡の再検討の機会まで、資料と記録の万全の保存が望まれる。〈石塚久則〉 |
| [文献] ◇『成塚住宅団地遺跡I』1990 ◇『成塚住宅団地遺跡』II-1・II-2 1990 ◇『同』II-3・II-4・III 1992 太田市教委 |