名胡桃城址(なぐるみじょうし)

  利根郡月夜野町下津字城平ほかにある。利根川と赤谷川の合流点を望む中位段丘から上位段丘面にかけて広がる名胡桃台地の南東突端、標高430メートル付近に立地する。両側は40メートル以上の開析谷の崖がそそり立つ天然要害の山城である。城の主要部は、国道17号に面した大手側の出入口である馬出しから北東へ三の郭、二の郭、本郭、ささ郭、物見などが直線に連なり、それぞれが堀切によって区画された往時の縄張り形態をよくとどめている。また、これらの北西に般若郭、南西に外郭、南東に水の手の各施設が残る。

 城の初現ははっきりしないが、沼田氏一族の名胡桃三郎景冬がこの地に居住したともいう。戦国時代後期に上杉氏、武田氏、後北条氏が上野国に進攻して三つ巴の様相になり、利根沼田地域も次第に戦乱の渦に巻き込まれていった。この周辺は三国街道に近く上杉謙信の関東進出の通路にあたり、永禄9(1566)年に名胡桃の地を堅固に構えるよう命じている。謙信の死後、後北条氏が北関東に進出し沼田城周辺を領有した。天正7(1579)年ごろ、真田昌幸が武田勝頼の命を受けて西から進攻し、沼田城を奪い取るための前線基地として、この城を築いたと考えられる。翌年、昌幸は後北条勢の攻撃を防ぎ、近隣諸城を攻略した勢いで沼田城を手中に収めた。天正10(1582)年、昌幸は徳川家康による利根・吾妻一帯の領土取り決めに従わず当地域の防備を補強したため、その後も真田勢と後北条勢の争いは絶えなかった。天正17(1589)年、豊臣秀吉の裁定で、沼田城を含む沼田領の3分の2を後北条氏に、西側の残り3分の1を真田氏に与えることにより紛争は決着したかにみえた。ところが、およそ後北条領となった地域の中で、なぜか名胡桃城だけが真田領として残ったことを不服として、後北条方の猪俣邦憲は、高山村境山頂の榛名峠城から名胡桃城代鈴木主水を襲い攻略してしまった。秀吉は激怒し、関東と奥州で諸大名の私闘を禁じた『惣無事令』(1587年)や先の裁定に違反したとして、北条氏政、氏直に宣戦布告し、翌18(1590)年には上野、武蔵、相模などの後北條勢を制圧し、小田原城を開城させ事実上の天下統一の覇業を達成した。利根・沼田・吾妻一帯は沼田城を中心として再び真田氏(信幸)の所領になったことで、周辺の小城は廃城になり、名胡桃城も10年間ほどの短い歴史に幕を閉じた。この辺境の山城におけるささいな事件をきっかけに、天下は揺れ動き、戦乱の世は終結、近世社会に展開していく。日本史上重要な事件の舞台となった城である。1949年に県史跡に指定された。

 大正年間から地元保存会により保護され、1万6688平方メートルの城址をよく保存し、戦争遺産として整備、さらに平和学習施設として活用していく事業を実施している。1981年に月夜野バイパス建設に伴って県埋文事業団が一部を発掘調査し、その後1992年から月夜野町教委が継続的に発掘調査を実施している。この調査によって堅固な防御施設を備えた特殊構造による山城の姿が分かってきた。般若郭では溝と柱穴列を郭周囲にめぐらせた柵塀、内部の溝区画や掘立柱建物9棟による館を確認した。ささ郭では両側に3段から4段に積まれた腰石垣をもつ高土塁、中央の通路面北端に搦手口の門礎石を確認した。馬出しは削平されてしまったが、半丸形の堀に橋があったことを確認した。三の郭からは前面の土塁の痕跡、三日月状の丸馬出し堀(武田流)、掘立柱建物2棟などが見つかった。二の郭からは周囲にローム土の削り残しを基壇とした腰石垣をもつ土塁、喰違虎口からつながりスロープ奥に延びる両側溝の中央通路、本郭の桝形状虎口の石垣と門礎石、1段下がった郭造成面に区画溝や建物などが見つかった。また、それぞれの堀は2メートルほど埋没しており、郭間をつなぐ土橋状の遺構は木橋を架けた橋脚台であることが分かった。遺物は、陶磁器片少量と石臼、古銭などのほか鉄砲玉10点が出土している。出土遺物は月夜野町教委、県埋文センターに保管されている。〈三宅敦気〉

[文献]
◇『城平・諏訪遺跡』 県埋文事業団 1984

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