中村遺跡(なかむらいせき)

  渋川市中村字蜂島にあり、利根川右岸と茂沢川の左岸の自然堤防と利根川の河岸段丘上に立地する。1984年から1986年にかけて関越自動車道渋川伊香保インター建設に伴って渋川市教委が発掘調査した。第1河岸段丘の下段は天明3(1783)年の浅間山の噴火に伴う土石流に約4メートルほど埋没しており、江戸時代の畑や水田、道、水路などが見つかった。河岸段丘上は縄文時代遺物包含層、弥生時代の集落、水田、墓地、古墳時代の水田、畠、集落、古墳、奈良時代の集落、中世の墓地、集落、近世の集落などが層位的に見つかった複合遺跡である。

 弥生時代の中期竜見町式期の遺構は、竪穴式住居3、方形遺構1、墓坑1、溝6本などある。集落は南側の微高地にあり、2重弧状の溝で住居が取り囲まれている。南側は茂沢川に削り取られているため、この溝がどのようにめぐるかは不明であるが、環濠集落の可能性もある。後期樽式期には南側の微高地に円形周溝墓がある。南北9メートル、東西8メートルの楕円形の二つの弧状溝によって区画されている。内部には7基の木棺墓がある。棺床に小礫を敷き詰めており、中には頭と足部に礫が置かれたり、側面にも礫が置かれたものがある。歯や骨が残っていた棺や勾玉、土器などの副葬品をもつものもあった。特に東海系のいわゆるパレススタイルの壷が注目される。石器は独鈷石、石鍬、石鏃などが出土した。

 古墳時代は前期の畠が谷の東岸にある。等高線に並行する溝と直交する溝が十数条見つかった。古墳時代中期5世紀末には、榛名山の火山灰層の下から、谷地形を利用した小区画水田が見つかった。水田面には人の足跡のほか、稲の落ち穂が多量に見つかり、火山噴火の季節が秋であることが分かった。本県では多くの水田が見つかっているが、栽培植物が発見されたのは本遺跡だけである。南微高地には溝や畠があり、北微高地では道が見つかった。古墳時代後期6世紀中ごろには、榛名山の軽石層に覆われた下から、谷地形を利用した小区画水田の縦畔だけを長さ160メートル以上にわたり造成途中の水田を確認している。北側の微高地には、主道と水田に下りる分道があり、主道のわきには土器の集中個所が3カ所ある。その後、火山灰の土石流が約1メートル以上堆積した7世紀末に竪穴式住居3、特殊遺構1、横穴式古墳1が見つかった。住居他からは、土師器坏、長胴甕、須恵器提瓶、大甕、凹石が出土した。古墳は、玄室、羨道が残っていたが、天井石は取り除かれ基礎石近くまで解体されていた。出土遺物は、須恵器平瓶、金銅製耳環がある。

 奈良時代では竪穴式住居34、掘立柱建物5、柵状遺構、溝状遺構が見つかった。竪穴式住居の前後関係から2時期あったことが認められるが、短い期間で限定された計画村落である。北側に大きな竪穴式住居が2棟あり、3間×4間や2間×3間の掘立柱建物がある。遺物は土師器坏、鉢、甕、須恵器は坏、盤、蓋、甕、壷のほか緑釉、三彩破片などがある。石器は石製紡錘車、砥石、菰編み石、鉄器は紡錘車、鎌、小刀のほかに小鍛冶に使用する鞴羽口などが出土している。

 中世の遺構は河岸段丘上に竪穴式建物11、地下式土坑11、井戸11、墓7、墓地などの集落が見つかった。竪穴式建物の周辺には無数の柱穴があり、掘立柱建物が付随していたものと考えられる。溝によって南北2カ所に分けられ、南側は9棟の竪穴式建物が直径20メートルくらいの円形広場の外側に配置されている。竪穴式建物の外周には入口を竪穴式建物に向けた地下式土坑が1棟に1個ずつセットで見つかった。20メートル南東に土坑墓、五輪塔群、板碑、火葬骨、蔵骨器などの墓地が築かれている。中世における竪穴式建物を中心とした集落は極めて珍しい。

 近世の遺構は浅間山の天明3(1783)年の噴火による土石流3.5メートルの下から水田、畑、水路(用水)、道、川などが見つかった。畑は200枚、水田は25枚ほどがある。畑は整然と畝たてされており、畝たての状態から4種類の植物が栽培されていたことが分かる。畑の上には植物が酸化した状況で見つかり、条件のよい物では土を取り除く瞬間に緑色をした大豆の鞘が現れた時もある。畑の境界は桑株をめぐらせた境桑だが、現在みられる桑専用畑ではない。出土遺物は陶磁器類、金属製品、木器、漆器、古銭、石製品、植物遺体、昆虫遺体などがある。出土遺物は渋川市教委に保管されている。〈大塚昌彦〉

[文献]
◇『中村遺跡』 渋川市教委 1988

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