中西田遺跡(なかにしだいせき)

  太田市内ケ島町、龍舞字中西田、字下西田にあり、北西から南東に延びる洪積台地の先端に立地する。1979年に区画整理事業に伴って太田市教委が試掘調査し、以後1982年、1987年、1988年、1990年の4次にわたって発掘調査した。調査面積は延べ5900平方メートルである。古墳時代前期の竪穴住居5、方形周溝墓1、古墳時代中期の竪穴住居9、古墳時代後期の竪穴住居11、平安時代の竪穴住居76、掘立柱建物4や井戸、土坑のほか、平安時代に水田開発のために設けられた用水路と考えられる溝も見つかっている。古墳時代前期には竪穴住居数も少なく、少数の人間が短期的に住んだ可能性が指摘されている。古墳時代中期には、大型竪穴住居を含めた9棟の住居が、遺跡北西寄りの比較的狭い範囲に分布している。1988年の調査では、竪穴住居が接する状態で見つかり、住居の主軸が南北方向のものと、南北から45°程度ずれるものとに分けられる。このことから、集落がさらに数時期に分けられると考えられている。古墳時代後期の住居は遺跡のほぼ中央部に分布し、古墳時代中期と比較してもさらに集落の規模は小さくまとまっている。

 平安時代は本遺跡の主体となる時期と考えられる。集落は8世紀終末から10世紀にかけて継続して営まれている。9世紀前半の竪穴住居が多く、遺跡地全体に及んでいることからも、このころが最も発達している時期といえる。9世紀後半になると住居数も減少し、それにつれて集落の範囲も縮小する。その一方、この時期に遺跡の東寄りでは台地上に灌漑用水路が構築されている。特に第1号溝は、断面積や底面土質、傾斜などから、計算上最高毎分4t前後の水量が得られていたことが想定されており、これによると400haあまりの水田が潤せたものと想定される。台地の北縁においても第1号溝と平行する形で大規模な溝が改修された痕跡が見つかっており、休泊堀の祖型として、長期にわたって大規模な灌漑用水路として機能していたと考えられる。

 特筆される出土遺物としては、「役」「子」と解される墨書土器のほか、銅製巡方、蛇紋岩製石帯、鉄製「か具」、和鏡、石製模造品が出土している。石製模造品は一般的に古墳時代の遺物とされているが、本遺跡からは平安時代の遺構から出土する例が圧倒的に多い。平安時代になっても竈祭祀用具などとして使用され続けていた事例として注目される。また、筋違い格子目とともに「薗田」の文字が陽刻された瓦の接合資料が平安時代の竪穴住居の竈から出土している。この瓦は、『和名類聚抄』に記載されている上野国山田郡にある郷名の一つである薗田郷から国分寺に貢納されたもので、上野国分寺、上野国分僧寺・尼寺中間地域遺跡、群馬町西国分II遺跡などで出土している。この瓦を出土した竪穴住居は9世紀前半に位置づけられており、国分寺で瓦を使用した時期との間には約半世紀の開きがある。本遺跡を含めた「薗田」の文字を細分すると、特に「薗」に差異が見られることから、彫り直しや笵自体の簡略化も指摘されている。以上の出土遺物から、本遺跡は平安時代において公的施設が設けられていた可能性が指摘されている。出土遺物は太田市教委に保管されている。〈金澤誠〉

[文献]
◇『大塚・間之原遺跡』1980・1982
◇『市内遺跡』IV・V・VI 太田市教委 1988・1989・1991
◇『太田市史』通史編原始古代 1996

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