| 中高瀬観音山遺跡(なかたかせかんのんやまいせき) |
| 富岡市中高瀬字観音山と庚申山にある。富岡市街地を北に見下ろす鏑川右岸の高瀬山丘陵から突出した、平地との比高60メートル以上の二つの尾根上に立地する。1989年から1990年にかけて、上信越自動車道建設に伴って県埋文事業団が中心部分を発掘調査した。その後、1990年と1991年に国史跡指定申請のために富岡市教委が範囲確認調査を行った。弥生時代を中心として、各時代にわたる遺構や遺物が見つかっている。
縄文時代では前期の集落遺跡が観音山東支尾根を中心に見つかり、竪穴住居7と埋甕3が調査された。石器類が多量に出土し、在地原石の硬質泥岩と長野県方面から運ばれた黒曜石を使った石器製作が行われていたことが分かった。 この遺跡で最も多くの遺構や遺物が見つかったのが観音山中央尾根を中心とする弥生時代である。範囲確認調査部分と合わせて144棟の竪穴住居と、トンネルで屋外の土坑と連結する竪穴住居8、掘立柱建物10、集落を囲む柵列や堀、そして方形周溝墓1も見つかっている。弥生時代の集落変遷を見ると、中期前半から後期初頭にかけて、山頂平坦面に集落が形成され、後期前半では山頂だけでなく観音山中央尾根上全体に、大きさの似た竪穴住居による中規模な集落が展開する。後期後半に竪穴住居数が突然爆発的に増え、極大型、極小型の住居が現れるなど規模の多様化も進んだ。集落の中心は狭いが急斜面に囲まれた中央尾根上に移って、さらに斜面部も整地されて竪穴住居が造られるようになり、周囲が柵で囲まれ、掘立柱建物も現れた。掘立柱建物は櫓状の建築物である可能性も考えられ、集落中心の要害地形である観音山中央尾根と山頂平坦面を区切る環濠的性格の堀も掘られている。また、堀の外側の山頂平坦部は墓域として方形周溝墓が造られるようになった。ところが弥生時代終末期から古墳時代前期になると、観音山尾根の遺構数が激減し、庚申山尾根の急傾斜面に小型竪穴住居の小規模な集落が営まれるのみとなってしまう。 弥生時代の中期後半では在来のものに交じって、北陸地方の土器破片が出土した。後期の土器は西毛に多い信州系土器を主体とするが、後期後半になると埼玉北部や赤城南麓を中心とする土器が加わる。さらに遠い南関東系の土器もわずかに見られる。また、当時の群馬で最も数多く発見された鉄鏃9点、そして打製石鏃11、磨製石鏃5などの武器遺物の出土があった。興味深いことに、この遺跡の弥生時代から古墳時代の竪穴住居は火事にあった率が非常に高く、特に後期後半の最後には多量の炭化材を残しているものが多く、大火災の生々しい痕跡が現れた。 3方を立つことも難しい急斜面に囲まれ、生活条件は厳しいが眺望の良い狭い尾根上という集落立地の特異性や、斜面を段状に造成して竪穴住居や掘立柱建物を造り、柵、堀、ノロシの穴跡とみられる焼土坑などの施設を伴うことに加え、鉄鏃や石鏃などの武器遺物の出土が多いこととも併せ、「倭国大乱」と関係する「高地性集落」の定義に適合する東日本最大規模の集落と考えられる。 古墳時代前期には観音山地区でごく小型の竪穴住居4棟が造られたのみである。中期になると中央尾根上に中型の竪穴住居による集落が形成されるが、継続期間は短い。奈良時代には庚申山尾根の急斜面で、竪穴住居のほか、焼失した礎石建物や石組遺構などの特異な施設が造られた。そこからは、須恵器の水瓶や鉄鈴などの遺物が出土しており、鏑川を挟んで向かい合う貫前神社に何らかの関連をもつ山岳信仰関連の施設と考えられる。中世以後の遺構としては、観音山尾根先端部に主郭を持つ中世の城の帯曲輪があり、さらに天明3(1783)年の浅間山噴火災害からの復興にかかわる畑の耕作跡が見つかった。庚申山尾根上は天明4年を最古の紀年銘とする百庚申が並んでいた場所で、これに伴う石組遺構が見つかった。 発掘調査の進行に従って、北関東における弥生時代の集落構造と流動的な社会状況を知る上で極めて貴重な遺跡であることが明らかになった。そこで、地元住民の強い要求の中で上信越自動車道の設計が変更され、遺跡をトンネル上に現状保存することとなった。1997年に国指定史跡となり、2002年完成を目指した歴史公園としての整備が富岡市教委により行われている。出土遺物は県埋文センター、富岡市教委に保管されている。〈坂井隆〉 |
| [文献] ◇『中高瀬観音山遺跡』 県埋文事業団 1995 ◇坂井隆「中高瀬観音山遺跡の姿」『吉野ケ里遺跡と古代国家』 吉川弘文館 1995 |