中筋遺跡(なかすじいせき)

  渋川市行幸田字中筋にあり、唐沢川の扇状地上に立地している。1986年に住宅建設に伴って渋川市教委が発掘調査し、縄文時代から近世にかけての複合遺跡であることが分かった。この遺跡の最大の特徴は5世紀末の榛名山の噴火に伴う火砕流によって被災した古墳時代中期の集落遺跡である。火山灰で覆われていたため破壊されず、被災当時の地面をはじめ、建物の形や、火砕流の熱で焼けて炭化した建物の建築材が良好な形で残っていた。遺構は竪穴住居4、平地式建物6、畠2、祭祀遺構3、垣根、道、溝区画、古墳1などである。ムラにおける1世帯の所有する建物群が垣根に囲まれて発見された。南側半分ほどの部分的調査であるが、一般集落内に竪穴住居と平地式建物が同時に存在することや、複数の竪穴住居が一つの周堤帯を共有することが判明した。また、住居の部材が残っているため、住居の構造がよく分かり、竪穴住居の屋根が土屋根であることも分かった。竪穴住居と平地式建物は竈を備えている。火山災害当時の季節は秋と考えられ、この時点では土器類が平地式建物に備えられていることから、民俗事例にある竪穴住居を冬に、平地式建物を夏にと季節によって住居形態の住み分けが行われていたことが分かる。そのほか平地式建物には食料庫、道具小屋、酒造りの小屋などおのおのが機能をもっていることなど、当時の集落形態や人々の暮らしぶりを解明する資料が豊富に提供された。出土遺物は、土師器坏、碗、甕、高坏、甑、須恵器大甕、「はそう」があり、石製品は滑石製臼玉、剣先形石製品、紡錘車がある。木器には炭化した曲物、機織り具、鉄器は鉄鏃、鎌などと種子として炭化した米、クリなどがあった。動物遺体にはイノシシの歯、シカの角や肋骨、歯などが出土した。

 縄文時代の遺構は竪穴住居1棟を半分調査できただけで、その多くは未調査である。黒浜式期の住居は平面形が長方形で、4個の主柱穴と壁柱穴列を持つ。炉は中央にある。周辺には土坑群がある。弥生時代では後期樽式の竪穴住居がある。重複が多く、完全に調査できたのは2棟である。1棟は1辺が8.9メートルを超える大型住居である。試掘調査では弥生時代後期の住居7棟が重複していることが確認されたが、一番古い住居床面から頭を北東に足を南西にした人骨が1体見つかった。古墳時代の遺構は5世紀末の火山灰降下以前では、4世紀ごろは古式土師器(石田川式S字甕)が多量に投棄されている。4世紀後半には古墳1基、土坑墓1基があり、墓域を形成している。土坑墓は南北方向に伸展葬とし、頭を南に向けた人骨が良好な状態で見つかったが副葬品はなく、頭付近に多くの石が見られ墓標としていたことが考えられる。また、浅い竪穴住居と思われる遺構があるが、南西部より、土師器碗類が多く出土した。奈良時代は遺跡の西寄りに集落を営み、官衙型小鍛冶(1カ所に集中して小鍛冶を行っている施設)をもっていることからみてこの近くに巨大な建物を建造していたことが予測される。小鍛冶は長辺10メートル×単辺6メートルの竪穴構造で、10基ほどの炉が2列で配置されている。平安時代は遺跡東寄りに集落があり、竪穴住居26棟が調査された。住居の密度はかなり濃い。特殊遺物として大理石製の帯飾具が出土している。

 1992年に県史跡に指定された。1992年と1993年に古墳時代の竪穴住居3、平地式建物1、同壁木骨1、垣根、祭祀場2カ所、古墳1基を復元整備し、一般公開している。竪穴住居、平地式建物は内部に入ることができ、竪穴住居の屋根断面展示施設、火山灰地層剥ぎ取り展示施設、展望施設などがあり、古代を体験できる。また、パンフレットの自動販売機が設置されており、これを見ながら遺跡を見学できる。出土遺物は渋川市教委に保管されている。〈大塚昌彦〉

[文献]
◇『中筋遺跡』『中筋遺跡第2次』 渋川市教委 1987・1988

戻る