鶴山古墳(つるやまこふん)

  太田市鳥山町字八幡にある。市街地北西部、金山丘陵の西側、大間々扇状地末端の低台地に築かれている。本古墳は明治6(1873)年生まれの登山家、木暮理太郎の子供のころの回想に記されている。当時この古墳は大古墳であることは知られており、周囲7町に余る堀をめぐらしていた。そしてこの古墳は大きなナラの林に覆われていた。そこに棲むキツネがよく付近の鶏を襲い、村の青年たちはそのキツネを退治するのに古墳に生える大木の元に穴をあけたが祟りを恐れて埋葬施設には触れなかったという。鶴山古墳はその後、開墾され桑の畑となっていた。ほぼ東南に前方部を向ける古墳は平坦な地形のなかに現在でもゆったりとその姿を望むことができた。発掘の契機は当時群馬師範学校教授であった尾崎喜左雄が太田市脇屋の観音免遺跡の調査の帰り道であった。堂原遺跡を乗せる台地から北方を望み雄大優美にたたずむ本古墳に見とれぜひとも調査をしてみたいと同道した尾崎の一番弟子を自認していた木暮仁一にもらしたことに始まる。1946年11月5日であった。木暮は早速、地主や地域の了解、協力を取り付け、調査費用も支弁して翌12月20日、尾崎と史学会の学生を迎えた。発掘調査は終戦直後の混乱期、食糧難のさなか、サンマ1匹を調達に市内中を走りまわったことや、貯金をすべて使い果たし勤務校には背広を買えずに軍服で出勤したことなどを話していた。発掘調査は26日までの8日間続けられた。埋葬施設の遺存状態は良好で周辺の学校では生徒全員が見学にきた。また「金の茶釜が出るそうだ」との風評がたち見物人も多く、遠方からは馬に乗ってくるもの、そしてにぎやかさを当て込んでオデン屋まで出たという。

 本古墳は前方後円墳である。墳丘の前方部の主軸方向は東南東、N-119°-Eである。墳丘の全長は95メートル、後円部の直径は41メートル、高さは7.5メートルである。前方部の長さは54メートル、前端幅は55メートル、高さは3メートルある。後円部に対して前方部は長く、前端部は広い。けれども墳丘の高さは後円部に対して前方部は低い。墳丘の規模の数値は大きい割に現地に立つと全体に「ぺったり」した感じを受ける。埋葬施設は後円部に入れた8本ほどの葺石、埴輪探索用の試掘溝によって確認された。墳丘表面から竪穴式石室の天井石の上面までは50センチメートルと浅く、天井石、石室を覆う粘土被覆などの記録はない。天井石は5石の大ぶりの石を小ぶりの石が間を詰めている。この天井石を除去中に石室外副葬品が発見された。埋葬施設である竪穴式石室の壁の上面は石室外の斜めの方向に立ち上がりその面は赤く固い粘土で被覆されている。この竪穴式石室の北側、石室の長軸に沿う長さ210センチメートル、幅50センチメートルの範囲に鉄矛5点と鉄鏃束が出土している。石室内への埋葬、副葬品配置と同時期に石室外副葬品配置後に天井石を乗せ再び粘土層による被覆を施したものと考えられる。たぶん後円部墳丘中央部に構築された埋葬施設の石室の墓坑壁に沿うように置かれた副葬品であろうと考えられた。埋葬施設の竪穴式石室は左右両方の壁は5枚の平石を、頭部、足元はそれぞれ1枚の平石を立てて使う。石室の内法の全長は280センチメートル、頭部の幅は77センチメートル、足元の幅は58センチメートル、石室の深さは60センチメートルある。頭部の主軸方向はほぼ東南東でN-75°-Eである。墳丘の前方部に対して竪穴式石室の頭部との角度は44°と北に振れる。竪穴式石室は頭部をほぼ東南東に向けている。

 石室内の副葬品の配置は三つのグループに分けられる。頭部には甲冑類が3組立て並べて出土している。中央部には遺骸を覆うように盾が1枚置かれ、その長辺両側に大刀類が出土している。足元には鉄製農耕具と石製模造品がまとまって出土している。頭部の甲冑は三つのグループで成り立つ。頭部北側には横矧板鋲留式短甲を立てその上に頚甲、肩甲、そして小札鋲留衝角付冑が載る。頭部南側には横矧板鋲留式短甲を立てその上に頚甲、肩甲、そして小札鋲留眉庇付冑が乗る。南側の短甲に接した西側には長方板革綴式短甲が出土している。

 中央部には遺骸を覆うように弁柄地に黒漆塗りの革製盾が出土している。盾は木製の枠木を鉄製鎹で組み合わせたらしく5個以上残存していた。四つの隅は鉄製盾隅金具が補強してある。盾の表面は革製で下地を弁柄地で赤く、その上を漆の黒で塗布している。盾の表面の文様は綾杉文と平行線文が認められる。この文様の施された部分に月日貝が8枚装飾に縫い付けられていたと考えられる。刀剣類は鉄製剣2、鉄製刀5が出土していることが確認されている。現在これらの刀剣類の出土位置が正確でないが、残された図面から北側の長辺に寄って鉄製刀2が、切先を西に向けて出土し、また、南側の長辺に寄って鉄製刀2が、切先を西に向けて出土していることは確認できる。またもう1振りは遺骸の左わき下から切先を西に向けて出土している。そのほか刀装具の金銅製三輪玉が6個出土しているが、どの刀に装着されていたものか不明である。鉄鏃は遺存状態はあまり良くなかったが、石室内からは13本、石室外からは69本の合計82本出土している。種類は平根腸抉両丸造短茎鏃、片刃腸抉逆刺短茎鏃、平根長三角両丸造長茎鏃、平根長三角両丸造短茎鏃、平根菱形鎬造長茎鏃の5種類に大別できる。特に注目されるのは平根長三角両丸造長茎鏃の一群が全体の53%を占めることである。

 鉄製農工具類は鎌5丁、槍鉋6本以上、斧53本、鑿14本が出土している。鎌の形態が曲刃であることが特に注目される。石製模造品は斧1点、手斧が1点、曲刃の鎌が3点である。刀子は21点出土しており形態に変化が多く、八つの類型に細分できる。そのほか人骨が盾の下から四肢をそろえて出土している。また石室壁上部外縁から武器の鉄矛が5点出土したといわれるが遺物が現存しないという。

 木暮仁一が生前よく語っていたことを思い出して、まとめとしたい。石室が開くという12月26日東武鉄スト中にもかかわらず進駐軍の命令で文部省技官であった齋藤忠がかけつけたという。その晩、出土品の保存方法をめぐり尾崎喜左雄は郷土の文化財は郷土に保管し、地元の皆さんに公開することを主張したという。齋藤忠は東京国立博物館で保管し国民に観覧することを主張したという。ついに、尾崎の意志強固な主張の前に齋藤が折れて保管施設のある所ならばということを条件に群馬大学史学科に預けるということで承諾されて県内に保管されることとなったという。1951年に県指定史跡となった。〈石塚久則〉

[文献]
◇尾崎喜左雄「群馬県太田市鶴山古墳」『日本考古学年報』1 1951
◇石川正之助・右島和夫「鶴山古墳出土遺物の基礎調査」I『群馬県立歴史博物館調査報告書』2 1986
◇右島和夫「鶴山古墳出土遺物の基礎調査」II〜VI『群馬県立歴史博物館調査報告書』3〜7 1987〜1991

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