| 塚廻り古墳群(つかまわりこふんぐん) |
| 太田市龍舞町にある。古代、中世の文献に名前を残し、大字名でもあった寮米地区(現龍舞町)のある休泊台地の東方に位置し、旧渡良瀬川の河道である湿田地帯に残る洪積低台地上に立地する古墳群である。標高は約28メートル、墳丘の一部分は削平され現在の水田面との比高はゼロメートルで、遠方からは古墳の姿は確認できない。1977年に土地改良事業に伴って県教委が発掘調査した。7基以上の古墳から構成されていると考えられる古墳群であるが、古墳の内容が判明したのはそのうちの塚廻り1号墳、3号墳、4号墳の3基である。
塚廻り1号墳は帆立貝式の前方後円墳と考えられる。前方部は1段、後円部は2段の盛り土で形成されている。前方部はN-34°-Wを向く。周堀を含む主軸方向の長さは31.4メートル、墳丘長さ26.1メートル、後円部直径18.8メートル、残存後円部高さ0.5メートル、前方部幅10.8メートル、前方部長さ7.3メートル、前方部残存高さは1.4メートルある。後円部中央から箱式石棺と考えられる石材の残骸と金銅製耳飾1点、切子玉1点が出土している。出土した埴輪の出土総数は257本である。普通円筒埴輪230、朝顔形円筒埴輪8、器財埴輪は6(組み合わせ基台5)あり、人物埴輪6(盾持人4、女性2)、動物埴輪(馬形)2がある。器財埴輪は大刀形4、靫形2である。ほ場整備のため墳丘上部は削平されたものの現水田下に周堀を含む古墳の一部が残されている。 塚廻り3号墳は帆立貝式の前方後円墳と考えられる。墳丘は前方部右側先端が残り、1段の盛り土で形成されている。古墳の方向は前方部をN-158°-Eに向ける。周濠の平面形は馬蹄形を呈する。周濠を含む主軸方向の復元長さは31.4メートル、復元墳丘長さ23.6メートル、残存前方部幅7.1メートルある。埋葬施設部は未調査、未確認である。本古墳から出土した埴輪の出土総数は66本である。普通円筒埴輪45、朝顔形円筒埴輪2、器財埴輪7(組み合わせ基台2)、人物埴輪10(男性5、女性5)がある。古墳の前方部は調査後、4号墳とともに盛り土復元整備され、道路を挟む北側の水田下に周濠を含む古墳の後円部がそのまま残っている。 塚廻り4号墳は帆立貝式の前方後円墳で、塚廻り3号墳に接した南西の位置にある。墳丘は前方部は1段、後円部は2段の盛り土で形成されている。前方部をN-92°-Wに向ける。墳丘と周堀の形は相似である。周堀を含む主軸方向の長さは29.5メートル、墳丘長さ22.5メートル、後円部直径17.7メートル、前方部幅8.7メートル、前方部長さ4.8メートルである。発掘調査で二つの埋葬施設が確認された。第1主体部は後円部中央よりやや南東にある。掘り方底面から規模を推定すると、頭位方向はN-47°-Eで、箱式石棺に復元される内法の全長は210センチメートル、頭位の幅は80センチメートル、足方向の幅は60センチメートル。第2主体部は後円部を囲む円筒埴輪列を破壊して構築されている。後円部中央より北北西の位置にあり、破壊を免れていた。石室構造は箱式石棺通有のもので、墳丘盛土を長方形に堀り込み、まず両短辺を立て、その間に右長辺7石、左長辺8石を立て、裏込めに小砂利を充填していた。床面にはきれいな小砂利を敷いていた。天井は六つの石で蓋をし、小砂利で充填してさらに白色粘土で漏水の処理をしていた。頭位方向はN-73°-Eで、箱式石棺の内法の全長は180センチメートル頭位の幅30センチメートル、足方向の幅20センチメートル、石室深さ20センチメートル弱である。 出土した埴輪の出土総数は304本である。普通円筒埴輪253、朝顔形円筒埴輪16、家形埴輪1、器財埴輪8(組み合わせ基台9、盾形3、大刀形5)である。人物埴輪は男性10、女性埴輪4、そのほかに性別不詳の人物埴輪の基部1の合計15である。動物埴輪は馬形2である。優秀な形象埴輪が出土しており、さらに埴輪の樹立状態が調査できた。本古墳は後円部を1周する円筒埴輪列によって区画された空間と前方部の前面が幅広の台形の円筒埴輪列によって区画された二つの空間の中に形象埴輪群が配置されている。後円部は密接して立てられた円筒埴輪が外の世界と内の世界を隔絶するかのように丸い世界を描く。後円部の円筒埴輪列の中の空間は後円部盛土がすでに削平されていたことから、形象埴輪群の詳細は正確に復元できなかった。人物埴輪の配置は出土の埴輪片の分析からなかったものと考えられる。盾形埴輪、大刀形埴輪とも組み合わせ基台に挿入される形式のもので円筒埴輪列の外に横倒しの状態で出土しており、組み合わせ基台の樹立位置は確認できていない。さらに盾形埴輪の破片が円筒埴輪列の内側で出土しており、器財埴輪の位置も確定できなかった。器材埴輪の分布から考えられるとすれば盾形埴輪も大刀形埴輪も9本ずつ交互に樹立していたのであろう。家形埴輪は円筒埴輪列を壊して築造された第2主体部の周辺から破片となって出土しており、円筒埴輪列の内側に立てられていたと考えてよい。 前方部の円筒埴輪列によって区画された空間の中は人物と馬の形象埴輪群が三つの場面で表現されている。前方部前列のグループは宝刀の頭椎大刀を右手に、意須比の礼装女子埴輪と踊るしぐさの女子埴輪、坏を左手に持つ2体の女子埴輪である。これらの1群は祭りを取り仕切る巫女と宴席を盛り上げる女子たちであろう。前方部中央には振り分け髪で全身を表現する椅坐の男子と飾り帽子の男子の2人の前で、振り分け髪で全身を表現する跪坐の男子が誄を奏上し、その後ろで飾り大刀を捧げる男子と幡竿を捧げ持つ男子が厳かに控える祭式の中核部分の演出である。前方部後方の場面には右手を挙げて手綱を持つ2人の男子は馬飼いを表し、前方は大型、後方は小型の馬でf字形鏡板や剣菱形杏葉、大きな鈴杏葉で飾りたてている。被葬者である首長は生前、馬飼いといった職業集団に愛馬を飼育させていたのであろう。同時期の保渡田八幡塚古墳や剛志天神山古墳など墳丘長100メートル前後の前方後円墳などの大首長層の埴輪配列には及ばないものの、墳丘長25メートル弱の中小首長層の帆立貝式古墳にも埴輪祭式の「祭宴」と「誄」と「職業集団」といった主要部分を正確に伝える姿勢は貫徹している。 本古墳群は渡良瀬川の洪水による氾濫層によって偶然にも旧状をとどめていたのである。遺跡の良好な遺存状態により、3号古墳の一部を含めた4号墳全体が1977年に県の史跡に指定された。古墳の上を盛り土で保護し、植栽を施し、樹脂による埴輪列を忠実に復元整備され、古墳公園として活用されている。出土した埴輪群も1985年に一括して国の重要文化財に指定された。出土遺物は県立歴史博物館、県埋文センターに保管、展示されている。〈石塚久則〉 |
| [文献] ◇『塚廻り古墳群』 県教委 1980 |