田端遺跡(たばたいせき)

  高崎市阿久津町、木部町にまたがる。鏑川、南方1.5キロメートルで鏑川に合流する鮎川、北方を屈曲して東流する烏川の3河川によって形成された氾濫原の微高地上に立地する。西方の観音山丘陵上には国特別史跡山上碑及び山上古墳があり、和銅4(711)年に多胡郡がつくられたとき片岡郡から分かれた「山等」の地域に含まれる。1975年から1982年にかけて上越新幹線建設に伴って県埋文事業団が発掘調査した。調査面積は約1万平方メートルである。縄文時代後期の敷石住居を最古として、古墳時代後期から奈良・平安時代、中世、近世に至る遺構が見つかっている。田端地区では、7世紀第4四半期から8世紀第1四半期とされる複弁七葉軒丸瓦と重弧文軒平瓦とが出土し、それらを創建時に葺いた「田端廃寺」が推定されている。牛歯、牛骨の分析からは、奈良・平安時代の、牛を飼育する比較的豊かな中層農民の存在が想定され、さらに、鉄滓の理化学分析では、精錬滓、鍛冶滓があることが指摘されており、製鉄から鉄器生産までの一貫した作業が推定されるなど、経済的に有力な集落であったことがうかがわれる。調査前に確認されていた心洞寺の土塁外側に接して、深さ2.5メートルから3メートルの堀が見つかり、その北東部が鉤形に屈曲することが確認されている。この堀の東側にも土橋の残る深さ2メートルほどの溝があり、出土遺物などから、心洞寺は2重の堀に囲まれた寺または館であったとみられる。出土遺物は県埋文センターに保管されている。〈関晴彦〉

[文献]
◇『群馬県史』資料編2 1986
◇『田端遺跡』 県埋文事業団 1988

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