| 館林城跡(たてばやしじょうせき) |
| 館林城は館林台地の中央部を東流する鶴生田川が形成した城沼と低湿地を要害にして築かれた典型的な平城で尾曳城の別称がある。城の縄張りは、城沼に突出する台地を区切って牙城部である本丸、二の丸、三の丸などの郭を配置し、牙城部の西および北側に広がる台地上に武家屋敷や城下町を置き、その全体を堀と土塁で囲う総曲輪型の城である。その築城は中世にまでさかのぼるとされるが築城年代や築城者については不明である。現在確認できる館林城についての最古の記録は文明3(1471)年のもので、この時館林城には「赤井文三、文六」が居城していたことを伝えている。その後館林城は上杉、武田、北条各氏の攻防のなかで推移するが、天正18(1590)年徳川家康の関東入国に伴い榊原康政が10万石で入封、その後榊原氏、徳川氏、松平家、秋元家などの居城として栄え、明治7(1874)年に焼失した。
館林城牙城部は、1982年に土橋門復元計画に伴って三の丸土橋門周辺を、1989年に歴史の森整備事業に伴って本丸を館林市教委が発掘調査し、1993年には工場の解体に伴って二の丸、南郭などを範囲確認調査している。また、城下町を囲う総曲輪土塁については、1994年と1995年に民間開発に伴って発掘調査されている。このうち、三の丸土橋門周辺の発掘調査では、3組の門遺構、3基の井戸、柱穴群、土坑などが確認されている。門遺構のうち1組は玉石を敷きつめ、その上に割石を帯状に重ねたものであり、2組は方形の掘り込みを前後に接続したものであった。この遺構の形態から、在城当時の土橋門は四つの脚を持つ門であることが想像された。復元された門はこの調査の結果を基にしたものである。また、本丸の調査では井戸や瓦溜り、石組遺構などが確認されたものの、後世の撹乱が激しく本丸の建物や施設などを明確に示すものは確認できなかった。このうち石組遺構の一部は、遣水や雨落の遺構と考えられ、在城当時の遺構として館林市子ども科学館の南側に復元してある。出土遺物は館林市教委に保管されている。〈三田正信、岡屋英治〉 |
| [文献] ◇三田正信・岡屋英治「館林城土橋門跡発掘調査結果報告」『館林双書』17 1995 ◇『館林城調査報告書』1 1994 ◇『館林市埋蔵文化財調査報告書』21・26・28・29 1990・1994・1995・1996 館林市教委 |