高崎城遺跡(たかさきじょういせき)

  高崎市高松町にあり、対岸に観音山丘陵を望む烏川左岸の台地上に立地する。近世城郭高崎城跡に今も残る三ノ丸堀と土塁に囲まれた範囲である。高崎城遺跡は、1985年の高松中学校建設予定地を手はじめとして、これまでに第13次まで発掘調査が行われ、弥生中期後半から近代にわたる遺構や遺物が出土している。第4次調査で弥生中期後半の竜見町式土器を伴う方形周溝墓が発見され、その後の新市庁舎建設に先立つ調査で、同時期の環壕の存在が明らかになった。

 環壕は新市庁舎からシンフォニーロードにかけて西半分が確認でき、環壕の回り方からみて南北120メートル、東西100メートルほどの規模を推定した。環壕の断面はV字形を呈する。環壕内部から土器片が多く出土しているが、住居は見つからなかった。上記方形周溝墓はこの環壕のほぼ中央に位置するが、このような例はなく若干の時期差があるのかもしれない。城内三ノ丸南端で浅間山古墳の一部を確認した。この古墳の存在は、絵図などの文献資料で知られていた。中世には、この辺りに馬上宿があったとされるが、建久4(1252)年、源頼朝が三原巻狩の帰途、この山に馬で登ったので馬上宿と名づけ、御座所の地に浅間社を勧請したと伝えられている。明治初年に陸軍管轄地となり削平された。確認部分から推定すると墳丘直径50メートル、周囲は144メートルとなり、『高崎寿奈子』『高崎志』などの近世文献の記述にほぼ一致する。周溝の規模は幅16メートルで、浅く平坦な堀底である。大規模な円墳と思われる。古墳に直接伴う埴輪はなく、周辺で円筒埴輪や形象埴輪が採集されている。

 奈良・平安時代になると遺跡全体に住居が拡大し、特に平安後期には大規模な集落が展開していたものと思われる。また、生産の基盤となるAs-B下水田は、高松地下駐車場地点で見つかっている。三ノ丸堀から東側の現市街地は、近世に城下町となるまで水田などの生産域であった。高崎城築城以前の中世の様子については、興禅寺古絵図によると、鎌倉街道が南方の竜見町方面から烏川左岸を通っていて、浅間山古墳、興禅寺の西側を回り込んで、馬上宿、金井宿を経て北方へ抜けている。馬上宿は国立高崎病院、金井宿はJT高崎支店付近と推定される。和田城はもう少し西の烏川崖上で、和田橋畔に櫓台跡がある。出土遺物で特徴的なのは、五輪塔や宝篋印塔が数多く出土していることで、興禅寺の存在と無関係ではなかろう。また、地裁高崎支部地点で見つかった石積土坑は和田城または宿場町にかかわるものと思われる。

 高崎城は、慶長3(1598)年、井伊直政によって築城された。その際、宿場町は城北へ移して本町となり、興禅寺、浅間山古墳は城内へ取り込まれた。興禅寺が現在地へ移転したのは天保10(1839)年3月のことである。これまでの調査で確認されたのは、赤坂中門土橋下の石製暗渠、追手門わきの石製側溝、子ノ門わき三ノ丸の大型建物、東門わき三ノ丸土塁の版築、武家屋敷に伴う地下室遺構、二ノ丸坪ノ桝形堀と堀底の障子遺構、梅ノ木郭堀の一部、井戸遺構などである。また、鍋島焼、肥前系、瀬戸美濃系などの陶磁器が大量に出土している。

 明治4(1871)年10月28日、第1次群馬県の誕生とともに、城郭は漸次破却され、旧藩士たちは城外へ去っていった。以後、昭和20年の敗戦まで高崎城は、東京鎮台高崎分営を経て、歩兵第15連隊の兵営となる。建物跡の遺存状況は良く、第2兵舎、武器庫、被服庫、機械室、体操施設基盤、上下水道施設、地下壕などが確認できた。近世、近代は文献の豊富な時代であるが、発掘によって文献を裏付け、また文献にない事実を発見するなど成果をあげている。出土遺物は高崎市教委に保管されている。〈中村茂〉

[文献]
◇『高崎城遺跡』III IV V 『高崎城三ノ丸遺跡』VII IX 高崎市教委 1990・1994
◇『高崎城梅ノ木郭遺跡』 高崎市遺跡調査会 1992

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