| 下小鳥遺跡(しもことりいせき) |
| 高崎市市街地の北部、緑町から問屋町西(当時、大八木町、下小鳥町)わたり、新幹線が北北西から国道17号をまたぐ前後にあたる。この付近で前橋台地と、榛名山南東麓の相馬ヶ原扇状地末端が重なり、標高100メートル前後、緩い傾斜の水田地帯が広がっていた。1973年と1983年に上越新幹線建設に伴って県教委、県埋文事業団が発掘調査した。遺構は、古墳時代初頭から天明3(1783)年に及び、竪穴住居25棟以上(古墳時代初頭3、奈良時代11、平安時代3)、掘立柱建物4、井戸15、土坑59、水田38面以上、溝98(旧河道、天明災害復旧時の軽石処理溝も含む)などである。集落にかかわるものは、低湿地が入り組む国道南部南半に集まり、ここから国道をまたいで北に広がる水田は、すべて、厚さ15センチメートル前後のAs-Bに直接埋没している。耕作継続中、一気に壊滅し、放棄された状態であった。畦や用水は直交し、その方位は南から10°前後東に偏り、真北を基準に統一的企画による造成が推測された。周辺の現況地割りには広域に条里の残存を示す傾向が認められ、大溝に、As-Aが埋没する用水がそのまま重複するなど、遺構と地表の地割りとの関連も明らかとなり、条里制水田を予測させた。これは1977年、大八木水田遺跡の調査で立証されることになる。
調査当時、As-Bの降下年代は、弘安4(1284)年が定説だった。1971年、山本良知は、女堀遺跡における所見と、上野国司の解にもとづく『中右記』天仁元年9月5日の記事を根拠に、すでに1108年説を提案していたが、この遺跡の状況はその史料の記述そのものであり、水田出土の「三井」の墨書がある須恵器坏の型式はこの時期に相当する。層位的にもほかにこの時期に当たる災害層はなく、浅間山麓追分火砕流の、C14法による荒牧重雄の複数の測定値許容範囲に1108年を含むことなどからも、その妥当性が検証されたため、この水田も、実年代が確実な水田となった。このことは、単に考古学上の年代指標(鍵層)確定がなされたということにとどまらず、文献史学との対話を促した。峰岸純夫、福田豊彦らによる、この災害の、古代から中世への過渡期における社会的影響について具体的な分析にまで展開する契機となった。 集落内の土坑から出土した平安時代初期の須恵器坏の内面には、公的文書断簡とされる漆紙文書が付着していて、漆工房の存在とともに、集落の性格、郷の構造をも示唆している。遺跡の地籍「大八木」町は、元来、群馬郡所属の大字名、旧村名であり、14世紀初頭までさかのぼる。歴史的諸条件の変化に伴い「八木」から派生した地区と類推できる。『倭名類聚鈔』や、11世紀初頭作成の『上野国交替実録帳』の群馬郡項には、「八木郷」、「八木院」を記載しているが、これらの史料に登載された群馬郡諸郷の所在を歴史地理学的に検討すると、「八木郷」をこの地域に当てはめて妥当と推定される。これは1991年、大八木屋敷遺跡の調査でより強化されることになるが、この遺跡がその一角を占めていた可能性は高い。地域史研究上、さまざまな課題の糸口を提供した遺跡である。出土遺物は県埋文センターに保管されている。〈石川正之助〉 |
| [文献] ◇山本良知「群馬県における冲積層中の軽石層の年代について」『第四紀研究』10-1 1971 ◇石川正之助「推定上野國群馬郡八木郷」『まえあし』 東国古文化研究所 1974 ◇『上越新幹線地域埋蔵文化財発掘調査概報』I 県教委 1975 ◇峰岸純夫『中世の東国 地域と権力』 東京大学出版会 1989 ◇『下小鳥遺跡』 県埋文事業団 1991 |