下郷遺跡(しもごういせき)

  佐波郡玉村町宇貫字下郷にあり、前橋台地が烏川で終焉する左岸上に立地する。遺跡と烏川の河床面とは10メートルの崖面を形成しており、川を挟んだ右岸側は沖積地となっている。調査の結果、遺跡は烏川によって数十メートルにわたり削り取られていることが判明している。関越自動車道建設に伴って1973年から6年間、4次にわたり県教委が発掘調査した。周辺には、烏川の支流である井野川沿いに、将軍塚古墳をはじめ、綿貫観音山古墳や不動山古墳などの大型前方後円墳が点在し、烏川と利根川の間には軍配山古墳や角渕古墳群、それに本遺跡を含む若宮古墳群など、数多くの古墳が密集している地域として有名である。

 本遺跡でも古墳群が主体と考えられたが、調査が進展するに従いむしろ方形周溝墓群を中心とする古墳時代初頭(4世紀末から5世紀初頭)の墳墓群が中心となることが分かった。この時期の遺構は、28基の方形周溝墓を中心に、円形周溝墓2、前方後円墳1、小石槨墓2、埴輪円筒棺1、土坑10、住居3、大溝1などで、古墳時代後期の古墳15基および中世の館と複雑に絡みながら展開している。方形周溝墓群は2群で構成されている。第1群は烏川の崖面上に、南東から北西方向に向けて帯状に15基が見つかり、その中に2基の前方後方形方形周溝墓が存在する。方形周溝墓の配置を見ると、前後関係が不明な点はあるものの、意識して重複しないように構築していることが分かる。前方後方形周溝墓の1基は、烏川によって遺構のほとんどが削り取られ溝の1辺のみが確認できた状況であったが、辺長が32メートルと大型で、溝の中から11個体の底部穿孔壷形土器が出土した。もう1基は完璧な企画(25センチメートルを基本とした尺を使用しているものと考えられる)で築造されており、墳丘の存在も想定されるなど、方形周溝墓というより古墳としての意識が強いことが分かる。第2群は烏川から260メートルほど離れたところで、第1群と同方向に13基が重複することなく展開している。その両側に円形周溝墓2基と前方後円墳1基が存在する。

 前方後円墳(『上毛古墳綜覧』滝川村第8号墳、天神塚古墳)は後円墳の一部を調査したにすぎないが、墳丘長約80メートル、周堀を含む全長150メートルの規模を持つ古墳である。周堀から埴輪、壷形土器、S字状口縁台付甕が大量に出土した。埴輪を復元したところ通常の円筒埴輪と異なり、古い古墳に特有の特殊器台形埴輪であることが判明した。復元された埴輪の胴体部分を見ると、顔面をイメージした線刻が施されている。このモチーフは近畿地方から東海地方の弥生時代の土器などに線刻されるものと同一であり、特に愛知県安城市亀塚遺跡から出土した壷形土器に描かれる顔面モチーフとの類似が問題となっている。

 また、この2群を含む北側に幅9メートル、深さ0.6メートルの溝が烏川に平行して見つかった。方形周溝墓群と同時期のものである。発掘調査が自動車道の範囲内に限られていたため、この溝の続きを明治時代の地割り図で追いかけたところ、東側に続く溝はやがて南側に折れ、直進した上で烏川まで達していることが判明した。この溝の北側には方形周溝墓がなくなる代わりに、同時期の土坑群が存在する。また、東側は同時期の集落が存在しているものと考えられる。従って、この溝は南側の方形周溝墓や古墳などの形態をもつ墓域と、北側の土坑墓を中心とする墓域との区別、東側とは本遺跡を中心とする墓域と集落を区別する役割をもっていたことが想像できる。本地域の古墳時代初頭の様相は、調査の結果からみると、4世紀代の方形周溝墓を造っていた在地豪族が、5世紀初頭になって前方後円墳を築くほどに成長し、本地域を統括する盟主的な統括者となったことを物語っていると考えることができる。出土遺物は県埋文センターに保管されている。〈巾隆之〉

[文献]
◇『下郷』 県教委 1980

戻る