| 三和工業団地遺跡(さんわこうぎょうだんちいせき) |
| 伊勢崎市三和町にあり、大間々扇状地I面の中央部に位置する。この扇状地面には、標高90メートル前後の等高線に沿って湧水点が点在するが、この遺跡は湧水点の周囲と、湧水点を谷頭とする沖積低地を挟んだ複数の台地上に立地する。1995年から1998年にかけて三和工業団地の造成に伴って、県埋文事業団が三和工業団地I遺跡を、伊勢崎三和工業団地埋文調査団・伊勢崎市教委が三和工業団地II遺跡からIV遺跡を発掘調査した。旧石器時代の石器集中地点50、縄文時代の竪穴住居約170、土坑約1600、古墳時代の竪穴住居約180、方形周溝墓22、掘立柱建物約20、平安時代の竪穴住居約400、掘立柱建物約100、須恵器窯3、方形区画溝1、中世の馬房7などのほか、古墳時代前期、平安時代の湧水点と導水施設、昭和50年代の土地改良の際に埋められた「大井戸」と呼ばれる湧水点などが見つかった。これらのなかで注目されるのは、湧水点の周囲に展開する旧石器時代の石器集中地点と、古墳時代前期の集落である。
旧石器時代の主要な石器群は、湧水点の西側の台地上に分布する。直径約50メートルの環状ブロック群とその他のブロック群が、ATとAg-KP間のローム層の暗色帯部分で見つかった。主な出土石器は、局部磨製石斧、ナイフ形石器、台形様石器であり、後期旧石器時代前半期の約2万8000年前のものと考えられる。石器群の使用石材をみると、栃木県北部の高原山産の黒曜石、茨城県大洗海岸産の黒色安山岩など、遺跡の東方にあたる地域で産出する石材が多く見られる。旧石器時代の人々は1カ所に定住せず、移動生活をしていたと考えられており、本遺跡地を訪れた集団が、栃木や茨城などの東方の地域と強い結びつきをもっていたことを示している。また、湧水点に伴う低地部では、後期旧石器時代に相当する泥炭層が6面見つかった。特に、AT下層で確認された泥炭層は、本石器群の分布が低湿地に近接する環境下で形成されたことを物語る。人の活動内容を考える上で石器分布地点の地理的環境は重要であり、本遺跡の場合、この低湿地と深く結びついて人の営みが展開していた可能性が考えられる。 古墳時代前期の集落は、湧水点の西側の台地上にあり、約140棟の竪穴住居がある。このなかで、住居の周囲に幅50センチメートル、深さ70センチメートルの溝をめぐらせた竪穴住居が注目される。この溝は分岐して住居に近接し、底面で住居内の壁溝にトンネル状に接続しており、住居をめぐった後に近接するほかの住居から延びた溝に接続し、東側の低地部にかけて約100メートルほど延びている。溝の機能については不明であるが、同様な遺構が東海地方の東部にあることから、同地方からの直接的な移住を示している。また、低地部では湧水点とそれを谷頭とする沖積低地が見つかった。谷頭の部分では、湧水量を増加するために谷頭の周囲を掘削した跡や、湧水を下流へ導水するために板材で壁面を覆った水路が見つかった。調査区域内では水田遺構が確認できないため、これは下流での水田耕作のための用水を確保することが目的であった可能性が高い。さらに、谷頭のやや下流の部分では、器台などを中心とする完形品の土器がAs-Cに直接覆われた状態で集中して出土した。これらはこの湧水点にまつわる祭祀行為を示すとともに、その年代がこの集落の最古段階の住居から出土する土器と一致するため、集落が成立して湧水点からの水を農耕用として利用し始めた年代をも示している。以上のことから、この集落は古墳時代前期に湧水による稲作を開始したこの周辺地域では最古段階の農耕集落で、この集落の成立には東海地方の勢力が深くかかわったものと考えられる。出土遺物は県埋文センターと伊勢崎市教委に保管されている。〈津島秀章・坂口一〉 |
| [文献] ◇津島秀章 「三和工業団地遺跡と旧石器時代の遺跡構造」 『群馬文化』250 1997 |