山王廃寺(さんのうはいじ)

  前橋市総社町にある。名称は山王地区にあることに由来している。日枝神社境内とその周辺が遺跡であるが、現在は住宅の密集地と農地になっている。折々の工事や耕作などの際に瓦片や仏教的な遺物が発見、採集され、古代寺院として注目を集めるようになった。1974年から7次にわたって前橋市教委が発掘調査している。

 塔心礎(国指定史跡山王塔跡)は大正年間、日枝神社境内の地下で発見された。心礎は安山岩を見事に加工したもので、中央には円孔が穿たれ仏舎利を収納できるようになっている。版築によって1辺約14メートルの方形の基壇を築き、礎石を配し瓦葺きの塔を建立していたとみられる。また、1959年に水道工事の際に塔跡付近で塑像頭部が発見されている。根巻石(国指定重要文化財)は塔の心柱の基部を装飾したとされる。鋭い加工の施された安山岩製で7片あるが、組み合わせると蓮華文になっている。中央の円形の空間は直径96センチメートルで巨大な柱があったことを推測させる。石製鴟尾2個体は、ほぼ完形のものが都丸民治氏宅庭先に、残欠が日枝神社境内に保存されている。それぞれ材質や加工法は違うが、主要伽藍に使用されたとみられる。鴟尾は屋根の大棟の両端に火難防除のために置かれたもので、玉虫厨子や唐招提寺金堂などに見ることができる。このほか緑釉水注、碗、皿および銅鋺の一括(国指定重要文化財)をはじめ、各種古瓦など優品の偶発的な発見が時々の関心を集めてきた。

 1974年から市教委が継続的に発掘調査し、基壇建物、礎石建物、掘立柱建物などの遺構を確認するとともに多数の遺物を収集した。基壇建物は塔の西に12.6メートルの間隔をあけて造られている。正確な大きさは明らかではないが、塔と同様に版築で基壇を築いた建物であった。基壇の上面は削られ、礎石やその掘り方も分からなくなっている。基壇の周囲からは多量の瓦が発見された。おそらくは、基壇上に礎石を据えた瓦葺きの主要伽藍の一つであったことがうかがえ、塔との位置関係から金堂とみられる。遺構東辺の瓦溜りから「放光寺」「方光」「寺」と記した文字瓦が発見されていることが特筆される。礎石建物は塔の北35メートル、東26メートルの地点に2棟重複して見つかっている。一部の調査であるため全貌は明らかではないが、伽藍の主要建築を思わせるものである。重複する2棟の遺構の間にはAs-B層が認められ、寺の変遷を知る上での手がかりとなっている。掘立柱建物は塔の北方111メートル付近にあり、基壇や礎石を使用しない。桁行9間、梁行3間の東西に長い建物で、僧坊、食堂など寺院に関連する施設であることが推測される。

 文字瓦に見られる放光寺については、辛巳歳(681年)の紀年銘をもつ山ノ上碑に「放光寺僧」とあり、1030年ごろの上野国司交代にかかる引き継ぎ文書の草案とされる『上野国交替実録帳』にも「放光寺」と記されている。遺跡の存続期間の検討に上記の2資料を加味してみると、山王廃寺は7世紀後半には創建され、少なくとも11世紀半ばごろまでは続いた「放光寺」であった可能性が高い。7世紀後半は隣接する総社古墳群の宝塔山古墳や蛇穴山古墳などの大型方墳が築造された時期でもあり、心礎、鴟尾、根巻石など寺院建築の石材加工技法がこれら終末期古墳の石室などの造りとも比較対照でき、造営にかかわった在地勢力と大和政権との関連が注目される。やがて、周辺には上野国府、国分寺などが築かれて律令体制下の上野国の中心地となっていく。東国古代社会における古墳時代の終焉と律令政治の展開の画期を探るうえでも重要な遺跡である。出土品は前橋市教委、県立歴史博物館などに保管されている。〈石川克博〉

[文献]
◇『山王廃寺跡発掘調査概報』 前橋市教委 1976〜1982
◇『群馬県史』資料編2 1986

戻る