| 空沢遺跡(からさわいせき) |
| 渋川市行幸田字空沢にあり、唐沢川の扇状地に立地する。土地改良や住宅建設に伴って、渋川市教委が発掘調査した。縄文時代から近世にかけての複合遺跡である。
縄文時代の遺構には56棟の竪穴住居、多数の土坑、列石が存在している。早期末の土器や石器の集中区は遺跡北東にあり、石器工房と考えられる。住居は前期前半の長方形竪穴住居1、中期前半の竪穴住居1で、中期の竪穴住居がその大半を占めている。中期末加曽利E4式期と後期初頭称名寺式期の敷石住居群と大型土坑、列石がある。列石は等高線に沿う弧状に3重で数カ所存在し、1カ所では末端部で石を積み上げ大石を載せている。敷石住居は柄鏡形で柄の部分は南東に向いている。出土遺物としては、深鉢、浅鉢土器、石器は、石鏃、打製石斧、磨製石斧、削器、掻器、凹石、磨石、石皿、多孔石などがある。 弥生時代は後期樽式期の円形周溝墓が3基あるだけで、そのほかの遺構はない。円形周溝墓は直径5メートルから7メートルで、周溝に囲われ、中心に東西に長い埋葬施設を伴っている。埋葬施設は木棺墓で、1号墓は棺床に石を敷き詰めており、2号墓は小口部分の外側に足と頭部分に拳大の礫が積まれている。出土遺物は埋葬施設から鉄製短剣1振り、勾玉1点があった。周辺からは小型台付甕、高坏、甕など完形に近い土師器が出土している。 古墳時代には5世紀後半と6世紀後半、7世紀の3時期の古墳が同じ場所に造られて、54基からなる古墳群を形成している。5世紀後半の古墳は県内でも少ない初期群集墳をなしている。古墳は円墳を主体としたもので、規模は周溝径10メートルから40メートル、葺石を持ち埋葬施設は確認していない。小型の古墳では周溝を持たず、竪穴式石室の外側にわずかな盛土の上に葺石を円形や方形に施したものがある。また、積石塚で、楕円形や円形、長方形などのほか、土坑墓で長方形の穴の底に石を数点並べ棺床にしたものなど多くの形態のものが含まれている。出土遺物として注目されるのは、畿内産の初期須恵器カップ形土器と韓式土器と考えられる轆轤つくり軟質土器の小鉢の存在である。そのほか土師器坏、碗、甕、壷、蓋、鉄剣、鉄鏃、剣形石製品、勾玉、管玉、臼玉、ガラス玉などがある。6世紀後半の古墳は2基だけで、15号墳とその北堀内に53号墳の小積石塚がある。7世紀の古墳は、すべて軽石を取り除いて地山を整形した後、石だけで石室、墳丘を造った積石塚である。石室は竪穴式と横穴式があり、8基がある。本県における積石塚分布圏の中心が本遺跡を含めた渋川である。 奈良時代から平安時代にかけての41棟の竪穴住居は、遺跡南東部に集中している。その中で竪穴住居を利用したものなど小鍛冶跡が3基ある。焼失家屋では粘土にスサを混ぜた状況が見受けられ、屋根の上に粘土を載せていたことが確認された。出土遺物は土師器坏、甕、須恵器坏、碗、瓶、羽釜、土釜、灰釉陶器皿、碗、瓶などである。鉄製品として刀子、紡錘車、石製品として紡錘車、砥石などがある。墨書土器として「本」「若」などがある。 中世の遺構では永楽通宝が3枚出土した土坑墓があった。土坑は楕円形で、規模は南北1.3メートル、東西0.9メートルである。頭骨、骨盤、大腿骨が良好に残る。また、頭骨下から牛の歯が1本出土していたが何を意味しているのかは不明である。 近世の遺構では寛永通宝を伴った墓が見つかっている。寛永通宝の中には、煙管の頭をつぶして1枚分とした雁首銭が含まれていたり、神社などで作られた南無阿弥陀仏と書かれた絵銭が3枚出土している。そのほか、高台付皿や朱塗りの椀などの副葬品が見られた。1980年に市史跡に指定された。出土遺物は渋川市教委に保管されている。〈大塚昌彦〉 |
| [文献] ◇『空沢遺跡』『空沢遺跡第2次概要報告書』 渋川市教委 1978・1979 |