上栗須A・B遺跡(かみくりすA・Bいせき)

  藤岡市中栗須字大林から上栗巣字寺東にかけてあり、藤岡台地上に立地する。1989年から1990年に合同店舗建設に伴って上栗須A遺跡を、1990年には工場建設に伴って近接地である上栗須B遺跡を藤岡市教委が発掘調査した。なお、両遺跡の間には、1984年から1987年に県道前橋・長瀞線バイパス建設工事に伴って県埋文事業団が発掘調査した上栗須遺跡がある。古墳時代後期末から平安時代にかけての竪穴住居110、古墳時代後期末から中世にかけての掘立柱建物122、竪穴遺構15、井戸4、溝、土坑墓群などがある。この遺跡は、6世紀末ごろから集落が営まれはじめ、9世紀中ごろを中心としてその最盛期がみられ、10世紀後半に至って竪穴住居が姿を消し、掘立柱建物による居住に変わったことがうかがえる。また、中世前半期に掘立柱建物と竪穴遺構で構成された集落が営まれ、戦国期には一定の配列をもった土坑墓群が形成された。特に注目されるのは、古墳時代後期末から平安時代にかけての掘立柱建物の形態とその機能である。掘立柱建物には一般的な「壷掘り」掘り方地業のもののほか、柱穴の間に浅い溝を掘った「溝もち」掘り方地業のもの6棟、深い溝を一定の深さに掘り、柱を立てた「布掘り」掘り方地業のもの1棟が見られる。溝もち掘立柱建物のうち1棟は、北辺に板壁を施した構造が考えられている。この建物は、倉庫と推定される建物と並列して存在し、近接する古墳時代後期末の金銅製耳環を出土した大型竪穴住居とほぼ同一主軸であることなどから、有力階層が居住した建物であったことがうかがえる。そのほかの「溝もち」掘立柱建物は、いずれも2間×2間ないし1間×2間の規模で、これらの建物やほぼ同規模の総柱の掘立柱建物などが、竪穴住居群の単位集団の中に1棟含まれ、「郷戸」あるいは「房戸」単位の倉庫と推定されている。出土遺物は藤岡市教委に保管されている。〈田野倉武男〉

[文献]
◇『年報』6・7 藤岡市教委 1991・1992

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