金山城(かなやまじょう)

  太田市金山町にあり、足尾山地の最南端にある独立丘陵である金山を中心として築城されている。築城は文明元(1469)年、岩松(新田)家純による。城主はその後、岩松氏の重臣横瀬(由良)氏へ移り、天正12(1584)年には後北条氏に攻略される。天正18(1590)年小田原城の落城により後北条氏が滅亡するとともに、この城も廃城となった。築城年代が明らかな中世の城は県内では極めて少ない。このころ本県では、いよいよ戦乱が本格化する時期に当たり、この城の築城はその象徴といえる。築城以来この城は県東部の中心的城郭として、上杉、武田、後北条3氏の覇権争いの中でも重要な役割を果たしていた。

 金山城は金山山頂部を中心に、派生するいくつもの尾根上に主要な曲輪を配している。大きくは、山頂を中心とする実城、そこから西へ延びる尾根上にある西城、実城の北側に分岐した観音山にある北城、実城南面の谷を隔てた大八王子山頂から中八王子山頂にかけてある八王子砦などがある。城への主要な登城口は谷筋となっており、太田口(大手口)、長手口、金井口などがある。太田口には城下町太田宿が形成され、県内屈指の山城として県東部の政治や経済の中心地に位置づけられる。1993年から史跡環境整備事業のため、太田市教委が発掘調査を進めている。主な成果として、日ノ池と虎口脇曲輪の調査がある。日ノ池は三の丸、御台所曲輪、南曲輪に3方を囲まれた1辺50メートルほどの大きさで、方形の水の手曲輪の中央に位置する。卵形の貯水池で、外縁は2段(一部3段)の石垣と、石敷きテラスに囲まれる。この池は谷頭に立地するため湧水を良好に蓄えており、実城の取水地として喰違虎口(出入口)によって厳重に防御されていたことも分かった。虎口脇曲輪は日ノ池の西側隣接地である。ここでは通路、土塁、石敷建物などが調査されている。通路部分では喰違虎口や門が発見され、特に石垣が顕著に使用されていた。戦国時代の石垣は関東では八王子城(八王子市)以外ではあまり知られておらず、県内でも極めて少ないものである。なお、この石垣は近世城郭の高石垣とは違ったものであるため、石積として区別した用語を使うこともある。調査資料などは太田市教委に保管されている。〈飯森康広〉

[文献]
◇山崎一『群馬県古城塁址の研究』上 1971
◇『太田市史』通史編中世 1997 宮田毅「太田金山城跡の石垣」『利根川』17 1996

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