金井廃寺遺跡(かないはいじいせき)

  吾妻郡吾妻町金井字市敷、俗称「じょうどう」、「こうみょうどう」の地にある。中之条盆地の南南西端の北下がりの緩勾配地に立地し、標高約374メートルのところにある。1978年に町道拡幅に伴って吾妻町教委が一部を発掘調査したが、この調査地点は寺院地外であると推定された。金井廃寺の存在は、識者の間で知られていたものの、具体的には『原町誌』に礎石などが紹介され、前記調査の報告書に遺物や寺院寺内の敷石遺構がまとめられて、広く知られるに至った。伽藍の規模は、南北約160メートル、東西110メートルと想定されている。直径51センチメートルから39センチメートルの円形造り出し礎石が22個以上確認され、これが金堂使用礎石と推定される。推定金堂前面には、45.2センチメートルの長さで河原石敷遺構があり、その南端に門があることが推定される。塔は不明ながら、県内でも主要伽藍を整えた数少ない寺院の一つと推定されている。既出の瓦類から、主要伽藍が瓦葺きであったことが示され、軒丸瓦6種、軒平瓦1種、丸瓦、平瓦、道具瓦が知られる。創建時の軒丸瓦は、断面形が片切山形をなす三重圏文を配した単弁八葉文で、7世紀後半の意匠を持つ、県内の古代瓦でも古い時期の瓦である。新しい瓦は8世紀中ごろの瓦であり、瓦葺建物の存続時期は100年弱のようである。創建期の軒丸瓦は、伊勢崎市上植木廃寺の創建期軒丸瓦と基本意匠が共通する。上植木廃寺−雷電山瓦窯系という県東部の地帯に広がる系譜の一端にあることが分かる。また、金井廃寺周辺には古墳時代後期の切石組の石室を持つ古墳に至る発展系列が薄いため、地域の氏人が造寺を行う私寺ではなく、上毛野国の公が推進した大がかりな造寺背景が想定されている。この地に大規模寺院成立を必要とする理由は、東山道とは別に、東北地方に至る開拓、軍事上の道筋(会津街道に近い)と拠点地域を必要としたためかと考えられている。資料は吾妻町教委に保管されている。〈大江正行〉

[文献]
◇新井新示「歴史時代最古の遺跡 金井廃寺」『原町誌』1960
◇『金井廃寺遺跡』 吾妻町教委 1979
◇『群馬県史』資料編2 1986

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