| 伊勢崎・東流通団地遺跡(いせさき・あずまりゅうつうだんちいせき) |
| 伊勢崎市日乃出町と佐波郡東村東小保方にあり、大間々扇状地の沖積低地に面した台地上に立地する。1977年から1978年に伊勢崎・東流通団地の造成に伴い、伊勢崎市土地開発公社と県企業局が合同で発掘調査した。主な遺構は、古墳時代の竪穴住居約450、奈良時代から平安時代にかけての竪穴住居約200、掘立柱建物38、井戸19、古墳時代前期の方形周溝墓11、平安時代の製鉄遺構5、中世の館2などである。これらの中で注目されるのは、集落のほぼ全域に近い範囲が発掘調査された、古墳時代前期から平安時代の竪穴住居群と、平安時代の製鉄遺構である。
古墳時代から平安時代の集落は、現在は水田となっている沖積低地の両側の台地上を占めるが、時代によって分布状況が大きく異なる。この傾向は古墳時代の前期と後期、および奈良・平安時代に特徴的に表れている。古墳時代の前期は、沖積低地の東側に位置する台地上にのみ立地し、沖積低地に面した台地の縁辺部から中央部にかけて広範囲に分布する。これに対して後期には、沖積低地の西側の台地上にも集落域が拡大し、しかも台地の中央部を中心に大きく展開している。また、平安時代になると、沖積低地の両側に展開していた集落域は、沖積低地の西側の台地にのみ分布し、さらにその南半部に限定した立地を示している。古墳時代の前期と後期の分布の差は、集落の生産基盤である沖積低地での水田とのかかわりで解釈することができる。この遺跡では水田遺構は確認されていないが、古墳時代の後期に水田が両方の台地側に大きく拡大されたため、沖積低地の縁辺部に立地していた竪穴住居群が、台地の中央部側に移動したと理解できよう。さらに、この時代に集落が両側の台地に広がるのも、こうした生産域の拡大に起因している。つまり、沖積低地での水田の拡大のため、集落域が両側の台地に拡大したものと考えられる。また、集落域が限定される平安時代の分布には、古墳時代のような生産域との関係とは別の、何らかの政治的な背景が考えられ、これは規則的に配置された竪穴住居の分布からもうかがうことができる。 平安時代の製鉄遺構は、5基のうちの1基が鉄の素材を得るための製錬炉で、ほかの4基は鉄素材の純度を高めるためや、鉄素材から鋤先や鎌などの鉄製品をつくる鍛冶遺構である。製錬炉は短軸2メートル、長軸5メートル、深さ1メートルの掘り込みをもつ作業場と、その一端に造り付けられた炉で構成されている。炉は1辺1.5メートル、深さ1メートルの方形の掘り込みに沿って河原石を積み上げ、この面にスサを混ぜた粘土をはって炉壁面を構成し、底面には焼土を混ぜた土をはって、炉床下からの湿気を防ぐ工夫をしている。炉の奥壁には、砂岩をくりぬいた樋状の加工品があり、これは炉の外側から内部に向かってすぼまる形をしており、炉内に空気を送る羽口を装着するための器具と考えられる。炉の内部からは、原料の砂鉄と燃料の炭が出土し、砂鉄を原料として鉄の生産を行っていたことが分かった。この遺構には年代の判定できる遺物の出土がないが、覆土の中位にAs-B層があることから、11世紀前後のものと考えられる。また、4基の鍛冶遺構については、竪穴状の掘り込みに竈を伴うものと伴わないものとがあり、住居と工房を兼ねた施設と工房とに分けられる。いずれも床面に炉があり、その傍らに鉄滓や壊れた羽口などを廃棄するための穴を伴っている。製錬炉と同様に、年代の判定できる遺物の出土がないために詳細な年代が不明で、製錬炉との関係は明らかでない。出土遺物は伊勢崎市教委に保管されている。〈坂口一〉 |
| [文献] ◇『伊勢崎・東流通団地遺跡』 県企業局 1982 ◇『群馬県史』資料編2 1986 |