石田川遺跡(いしだがわいせき)

  太田市米沢にある。利根川の支流である石田川と、石田川の支流米沢川(現在の聖川)に挟まれた小台地上に立地する。1952年に石田川、米沢川の護岸工事中に発見され、尾崎喜左雄、今井新次、松島榮治らが発掘調査した。遺跡名は今日では「石田川遺跡」で定着しているが、1952年11月の日本考古学協会総会においては「群馬県・米沢遺跡」として報告されている。また、1994年に、太田市教委が遺跡の範囲確認調査を行っている。

 1952年の発掘調査は便宜的にA地域からC地域に分けられて行われた。A地域では竪穴住居8(古墳時代前期2、古墳時代中期3、平安時代3)とそのほかの遺構5、B地域では竪穴住居2(古墳時代中期1、平安時代1)とそのほかの遺構2、C地域では竪穴住居と推定される遺構2(時期不明)、がある。また土器包含層も見つかっている。出土土器は、報告書中で「第I種土器」(古墳時代前期)、「第II種土器」(古墳時代中期)、「第III種土器」(平安時代)と示された3時期のものがあるが、「第I種土器」が圧倒的に多いことが特徴である。この「第I種土器」群が「石田川式土器」の設定の契機となった。このほか、B地域1号遺構からは鶏形埴輪の頭部が出土している。出土遺物は藪塚本町立歴史民俗資料館(1952年調査分)と太田市教委(1994年調査分)に保管されている。

 1968年に刊行された調査報告書で松島榮治は「石田川式土器を土師器の一様式として認定し、しかも、この様式をもって本地方における土師器の成立と考えたい」とし、その年代を「四世紀後半から五世紀の前半を著しく下ることはない」とした。基準資料として(1)台付甕形土器A類、B類 (2)壷形土器A類〜D類 (3)小型鉢 (4)長頚壷 (5)短頚壷 (6)坩 (7)高坏形土器 (8)まり (9)碗 (10)器台形土器− の器種を提示している。これ以後、「石田川式土器」は、「群馬地域における古墳時代前期土器」の総称として広く使われてきた。

 しかし、この「石田川式土器」には二つの再検討課題がある。第1の課題は、編年的位置づけである。「石田川式土器」より古い土師器があることが分かってきたことと、1980年代以降、発掘資料の増加とともに急速に進展した、古墳成立期の土器の交流に関する研究を見ると、「石田川式土器」群の様相は古墳時代前期全体を通して見られるものではなく、その後半期のものであることが判明してきている。「石田川式土器」の基準資料には、汎日本的な土器交流の時期である古墳時代初頭(おおむね3世紀後半から4世紀初頭)の様相は見られない。むしろ、盛んな土器交流を経たのち、S字状口縁台付甕(以下、S字甕)などの東海西部を主とする土器文化が在地化していく時期(おおむね4世紀前半以降)の土器群と考える方が妥当である。近畿の布留1式から2式、東海地方の廻間III式に併行する時期と考えることができる。

 第2の課題は、その成立要因である。群馬地域の弥生後期の樽式土器と「石田川式土器」との分布圏に差異が見られること、そして、S字甕や伊勢型二重口縁壷という型式の源流を東海西部(伊勢湾地域)に求めることができることから、「石田川式土器」成立の契機に東海西部からの大規模な入植集団の存在を想定する説がある。一方、樽式土器と「石田川式土器」の間に無文の樽式土器が見られることから、「石田川式土器」の成立は、在地主導の土器変容によるものとする説もあるが、前説の方が、後説よりも広く受け入れられている。前述の通り、樽式土器と「石田川式土器」の間には、社会現象としての大規模な土器交流の時期があり、その時期を介して、主に東海西部の影響を強く受けた上で、外来系土器の在地化として「石田川式土器」が成立していることが明らかなためである。「石田川式土器」が他地域の土器文化の流入(人の流入)によって成立したものと考えるほうが、在地主導の変容の結果と考えるよりも適切であろう。土器文化の流入現象が制圧的、支配的なものなのか、友好的なものなのかについて、さらに検討が必要であることは言うまでもない。「石田川式」が提唱されて30年が過ぎた今日、その後に蓄積された膨大な発掘資料も加味した上で、「石田川式」の土器様式としての本質を再検討することが求められている。〈深沢敦仁〉

[文献]
◇『石田川』 石田川遺跡刊行会 1968
◇『群馬県史』資料編2 1986
◇『太田市史』通史編原始古代 1996

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