| 有馬遺跡(ありまいせき) |
| 渋川市八木原にあり、榛名山東南麓に形成された扇状地上に立地する。1983年に関越自動車道建設に伴って県埋文事業団が発掘調査した。弥生時代から平安時代までの複合遺跡である。弥生時代から古墳時代の竪穴住居83、礫床墓86、壷棺墓46などが調査された。
竪穴住居から出土した弥生土器は樽式土器である。古墳時代初頭になると樽式土器に交じって北陸地方に分布する土器や東海地方の土器が出土している。北陸の土器としては能登半島地域の甕が多い。県内では有馬遺跡のほか沼田市町田小沢II遺跡、高崎市八幡遺跡、下佐野遺跡、前橋市内堀遺跡、新田郡新田町下田中遺跡などでも出土しており、さらに類例が増えるものと考えられる。北陸の土器は隣県長野県、新潟県などでも確認され、関東地方でも出土例が多い。北陸地方と関東地方、信州、越後地域との関連を考える上で重要な資料である。東海系の土器は北陸系土器とほぼ同じ時期か、やや遅れて入ってきている。このように弥生時代が終わり古墳時代が始まるころには日本中で土器の交流が始まる。北関東でも主に大和(畿内)や東海地方の土器が出土する。県内でも樽式土器とこれらの地域の土器が交じって出土している。 礫床墓は弥生時代後期の埋葬形態の一つで、有馬遺跡では86基ある。礫床墓の名は埋葬施設に小礫を用いたことによる。小礫は長方形の墓坑底面にほぼ水平に敷かれるものが多いが、礫床の形態から5ないし6類に分けられる。規模は長さ1.2メートルから2.8メートル、幅0.5メートルから0.6メートル。礫床の状況などからは板材を使用した木棺墓の可能性が想定される。礫床墓は周溝墓(埋葬部の周りに溝をめぐらす墓の1形態)の埋葬施設にもなっていて、5号周溝墓には5、7号周溝墓では10基の礫床が造られている。5号周溝墓の溝からは底部穿孔土器を含む多量の土器が出土した。周溝墓の規模は直径4メートルないし5メートルのものから14メートルないし15メートルのものまである。副葬品は8基の礫床墓からおのおの1本、計8本の鉄剣のほか、勾玉、管玉、ガラス製小玉、鉄釧、銅釧が礫床直上に密着した状態で出土した。7号周溝墓では、鉄剣が礫床上のほぼ腰と胸のあたりにあり、ガラス製小玉は胸に集中し、銅釧は4本が腕に装着された状態の位置から出土した。また、この周辺から人物形土器が出土している。礫床墓からは北陸系や東海系の土器は全く出土していない。したがって弥生時代の墓ということになる。 有馬遺跡の周溝墓は楕円形か円形で方形周溝墓は少ない。県内では古墳時代になると方形周溝墓が盛んに造られはじめるが、本遺跡の周溝墓は後の古墳時代周溝墓とは形態が異なっている。本遺跡での周溝墓は、礫床墓86基、壷棺墓46基に対して11基と全墓数の中での存在率は低い。したがって弥生時代は周溝墓の普及率は低かったものと思われる。このような県内での周溝墓の普及率の低さは他県とは異なった墓制のあり方を示し、他地域より方形周溝墓の出現が遅い。しかし、これは樽式土器文化が他地域より遅れていたことを示すものではないことは、副葬品の豊富なことや鉄剣の量、鉄釧、銅釧など卓越した物をもっていたことからも分かる。樽式土器文化は独立性の強い文化圏を構成したものと理解できる。 As-Cで埋没した畠も確認された。山麓地のため畠の依存度の高いこの遺跡は古墳時代に入り水田可耕地を求め平野部に移動する。出土遺物は県埋文センターに保管されている。〈友廣哲也〉 |
| [文献] ◇『有馬遺跡II』 県埋文事業団 1991 |